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2025年の締めくくりは・・・通夜葬儀を勤め火葬炉で鉢合わせするおかしな光景。これを経験すると疑問が止まらなくなる。

本日はお手伝い葬儀のご縁。

お寺を常にオープンにしておかなければならない理由はここにあり。


人間、いついのち終わるかなんて保証されていない


けれどもダブルブッキングやどうしても大切な私用がある時には

助け合うことが出来るのが浄土真宗の強み。


他の宗派では僧侶に位付けがあるみたいなので

袈裟や衣の色で分かってしまうらしい・・・

昔の笑い話で住職ではない人が参ると怪訝な顔をされるのはこの為だろうか

(浄土真宗でも僧班で衣の色が分かれているのも謎だけれど)


それはさておき助け合えるのは同じものをいただいているから。


僧侶に限らずいのちあるものすべてに南無阿弥陀佛が届いているからこそ



誰かのいのちが終わったならば

通夜葬儀の主役は、いのち終えられた方


だから導師は当然主役、七条袈裟を棺におかけするのも導師だから


読経や法話をする僧侶は、佛さまにお使いとして精一杯導師代理をつとめさせていただくのみ


位分けは無いけれど、ここに努力の差が出てくるだけ


だからお手伝いの聲をかけていただけるご縁は嬉しいし頑張ろうと思える


お寺で葬儀が終わり荼毘所である近くの町屋斎場に行くと

年末でも大混雑

火葬炉の前では私を含めて4宗派が勢揃い

このような空間で湧き起こる心の聲

(通夜葬儀を勤め火葬炉で鉢合わせするおかしな光景。これを経験すると疑問が止まらなくなる。)


同じ佛教でありながら

① 故人様を佛様と敬い仰ぎ見る我々宗派

② 故人様に戒名を授け佛を目指す行者として見送る他の宗派(理屈は分からないけれど

  即身成仏は除く)


全然方向が違う時間を体験していると


「果たしてこれからご遺族が仏教と向き合う時間が出てくるのだろうか。

 むしろ自分もいのち終えたらこんな感じで見おられるのかと思い描くだけでは

 ないだろうか。」と心配になる。


しかも前半に書いた位で色が違うということは経験力に差が出るということに他ならない。

(そもそも佛に成るという事を何か実体的なものとして捉えてしまっている時点でこれで良いのだろうかと怪しい目で見ている自分がいる。)


火葬炉前でも浄土真宗の空間はご遺族に向けられた佛力で説かれるお経を勤める。

向きは佛さま⇒ご遺族、通夜葬儀でも日頃のご法事でもこれは変わることがない。


来年の目標は、いやこれから10年間も目標は向きの変換。

ずっとやってきたけれど納骨壇も設置されたのでますます力が湧いてくる。

子どもたちの未来の為に、ご門徒の為に向上有るのみ!!!


今年もお世話になりました。 よいお年をお迎え下さいませ。  

                               


 
 
 

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