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〜納骨壇のおすすめ〜

ある本を立ち読みしましたφ(..)

そこには


 ①共感 ②興味 ③納得 ④継続


このようにありました。しかし、この本清寺には弱点がただ1つあります。


それは、ひいひい爺ちゃんとひい爺ちゃんがせっかく購入してくださった共同墓地もいつの間にか父親兄弟のよくわからぬご門徒様争奪戦により兄の側のお寺に墓地を所有されてしまった事です。

本清寺の周囲にご門徒さまのご自宅は多いものの先祖代々の墓地は当然そちらにあるわけです。最初はいつでもお参りしていただきご自身のいのちの話と向き合える空間を考えておりましたが、すでに墓地を持たれている方の腰は重いようです。(^o^;

というよりも南無阿弥陀佛とご開山・親鸞聖人からお預かりしているご門徒ですから

《うちのお寺の門徒》という括りがすでに問題なのです。


墓終いや仏壇終いが加速している今がまさにチャンス到来なのですが

それを上回る勢いで【無宗教】という無いものを有る化してしまった人間教が大流行です。


この本のアドバイスのままに当てはめるならば

納骨壇を設置した第一目的である教えが無くなった家の宗教から離脱し

教えに生きる個の宗教へのきっかけとなるはずなのです。


① 共感

 これは誰にでも共通する話題ですから共感しか得ないはず。

 《人間として生まれてきたからには必ずいのち終えていく》


例外無く皆、死にます。

だからこそその問題を解決するのは【いのちある今】しかありません。


② 興味

 ここが壁かもしれません。なぜなら若く健康な方々の興味は未来の自分に向いているからです。仕事や恋愛、友情、遊びなど大忙しですからこの年代はひとまず置いておきます。

むしろその上の世代、ある程度子育てが終わった50代、60代の方こそ①に目を向けて欲しいです。というのも昨年から初縁をいただいている通夜葬儀の多くはこの世代だからです。

  《 自分自身のいのちに興味を持ちましょう。 》


意外と知られていない話ですが、佛教を大切にする事は自分自身を大切にする事に繋がります。


③ 納得

 これは②を突破すれば簡単に納得していただけます。

 それは自分自身のいのちとは《私が私として成立している由縁を知る話》だからです。

 人間は独りでいきられません。そして、《私》という存在も独りでは成立しません。

 身体や心、そして周りの環境のお蔭で初めて《私》は《私》でいられています。

 実はそこに亡き方のいのちにも目が向いていく時、亡くなられた方の肉体は尽きても

 亡くなられた《大切な方》は、佛さまとしてご一緒くださっている事実に出遇います。


《 私は、私以外のすべてに支えられ、私も私以外のすべてを支えている関係。 》


④ 継続

 つまり、①〜③の話をいつ聞いておくのか?

 先程、若い方々を一先ず置いてしまいましたが、50代、60代で初めて聞くよりも

 もっと早い方が継続時間は長くなります。

 その継続されたいのちが尽きる時に勤まるのが本当の通夜・葬儀であり

 その後、ご遺族に繋がっていくご法事そのものであります。


 《 誰かが亡くなった後で勤まる法事は、本人の意志に反したご遺族のみの法事。 》


これが実際に多い現代のご法事です。これはご遺族にしか意味がありません。

誰もが共通のいのちの問題を抱えているのですから、皆がいのちある時に聞いておきましょう。


さて、①〜④を自分の問題として引き受けた方は、墓終いや仏壇終いがいかに不自然か理解できます。そして、永代供養がもっともご先祖が悲しまれる事態であることも分かってくると思います。


自分自身が佛教と向き合う時、ご先祖も先立たれたすべてのいのちが私を私たらしめてくださっていたご縁でありますからお蔭と感謝のご法事がずっと勤められていきます。

自分のいのち尽きるまで継続されますから育ち続け、その姿を見てこられた《これからの世代》にもしっかりと伝わっていきます。


これが本当の新しい納骨壇の在り方です。


私が薦めるのはコンパクトな納骨です。
私が薦めるのはコンパクトな納骨です。

↑ いきなりお骨をこのサイズにするには抵抗があるかと思われますが、だからこそ

早目早目に佛教を聞いておくとこの《お骨》の意味が一般常識とは全く違う次元で開かれていきます。


《迷惑かけたくない》《負担になってほしくない》という想いは、家族を想っているようで

実はご自身が亡くなられた後に結局負担も迷惑もかける事になります。

終活は、誕生と同時に初めても問題ありません。


                                   南無阿弥陀佛



 
 
 

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