〜常識を崩す始まり〜 無宗教編
- 本清寺 浄土真宗本願寺派
- 6月4日
- 読了時間: 5分
浄土真宗のおみのりを初めて聞かれる方が多いご縁をいただく機会がかなり増えました。
そのほとんどは、誰かを亡くされた通夜葬儀、1日葬、炉前葬です。
厳しいご縁でも長寿のご縁でも必ずお伝えしなければならない要があります。
しかし、それがまさに
常識を崩す始まり
『 何もこんな時に言わなくても・・・ 』と思われていそうですが
この事を皆がいのちいただいている今に聞いて置けばそこで本当の事を伝えなくても済むとは思ってはいるのですがそれは初縁の方々が悪い訳ではなく全部お寺側。(^o^;
皆さん!! 浄土真宗の佛さまは南無阿弥陀佛です。が!!
この佛さまは、お寺の内陣に鎮座している訳でも、ご自宅のお仏壇にいらっしゃるわけでも
絵像でも仏像でもございません。
『 今、私たち1人ひとりのいのちの上にしっかりとご一緒くださっている
佛さまです。 』
その証拠に『南無阿弥陀佛』と称えると我が口に称えられているではありませんか。
あ〜確かに!! とこの時は納得してくださいますが、よくよく冷静に考え始めると
【 え・・・でも、これって貴方が仰ったから唱えただけですが・・・ 】と
思われる方もいらっしゃるかもしれません。
今日は、その話をお伝えできればと存じます。
さて、浄土真宗で大切にお勤めするお経はこの3本です。
① 佛説無量寿経 ② 佛説観無量寿経 ③ 佛説阿弥陀経
どれもお釈迦様が南無阿弥陀佛のお話をお説きくださったお経です。
皆様がお寺やお仏壇で見られる絵像・木像の仏像は②の佛説観無量寿経に説かれている姿です。(住立空中尊)

『 おいおい! ならばご一緒とは言えないじゃないか! 』
そうなんです。②のその部分だけを拝見すればそのように思えてしまいます。
この佛説観無量寿経を端的にお説明すると
親子間の問題が第三者に暴露され、子が怒り父を殺め、母を幽閉した所から始まります。
その母にお釈迦様が説かれた内容が、南無阿弥陀佛でありました。我が子に裏切られ絶望を抱いてた母親(本当は自身の過去に問題があるがこの時は気づいていない)に対してお釈迦様は、ただただ母のこぼれ出てくる愚痴を傾聴していると
『 もう地獄餓鬼畜生が蔓延する世界には居たくありません。どうか清浄な世界を教えてください。 』 と懇願されました。
ここも外せないポイントです。我々は地獄と聞くと死後に行く場所と考えていますが、母の見ている現実に地獄があります。つまり、地獄は行く場所ではなく自らが創っていく世界。
そこでお釈迦様は、白毫から光を放ち母親に南無阿弥陀佛の世界を密かに選ばさせます。
『 あぁ! 素晴らしい。どれも素晴らしいけれど南無阿弥陀佛の世界へ私は参りたい。
是非是非、そこに参るための方法を私に教えてください。 』
そこでお釈迦様は絶望中の母に対して様々な修行を説かれていきます。
《 参る為の修行 》ですからまずは準備が必要になります。
参る為には参る場所をしっかりと見定めなければなりません。佛さまの世界を思い描いていく【観察の修行】を教えられました。
その途中で突如として母の眼の前に現れたのが先程の住立空中尊でした。
ですから
『おいおい!やっぱり観察する為の姿なのだから一緒ではないじゃないか!!』
と突っ込まれそうですが、もう少し話を進めましょう。
この後にお釈迦様はこのような事を教えられます。
【 一々光明遍照十方世界 念佛衆生摂取不捨 】
念佛の衆生を、南無阿弥陀佛は摂取し決して捨てられない・・・と。
お釈迦様が説かれたこの意味とは一体。
《南無阿弥陀佛が観察できた観念佛の行者》は摂取不捨??
そのように受け取れそうなこの言葉。
しかし、よくよく順序を考えてみましょう。
お釈迦様は佛さま、母は煩悩を抱えた人間、観念佛行者は観察しようと努力している者。
つまり、ここで間違いなく観察されているのはお釈迦様のみです。
佛さまが《南無阿弥陀佛の光明は十方世界を遍照し念佛衆生を摂取不捨される》と教えられたのです。
観察する側は、観察する対象として南無阿弥陀佛を離していますが
観察された側からすると南無阿弥陀佛は対象ではなく十方世界を遍照されているから離れていません。
ここでいきなり話を変えますが、浄土真宗の正依のお経は②ではなく①なのですm(_ _)m
では①には何が説かれているか・・・
南無阿弥陀佛がどのように南無阿弥陀佛と成られたか、誰を目当てとして成仏されたか等
重要な内容が欠け目無く説かれています。
中でも南無阿弥陀佛がどのような佛さまに成るか。
これは、佛さまがどのような姿の佛と成るかという話です。
そこには、
名聲超十方
『 南無阿弥陀佛は、名聲の佛の姿と成ります。 』 とあります。
あれ? ②は、観察するって説かれていなかった??
そうです。ここが重要な時系列です。
②の前に①が説かれてあったからこそ、実は②の一番最後ではお釈迦様は
南無阿弥陀佛の名を大切にしなさいとお勧めされます。
ずっと観察が説かれていたのに最後の最後で称名を。それは、すでに
念佛衆生摂取不捨と説かれるように佛さま側から見れば名聲の佛であるのだから
すでに我々の側に届いている、しかしそれを知らずに気づかずに過ごしている者がいると。
いつ知るのか? いつ気づけるのか?
それが、大切な誰かを亡くされた時。
日頃は、お寺なんてまだ必要ない、私は無宗教で家が属しているお寺があるだけ。
ずっとご一緒であった名聲の南無阿弥陀佛を世間の常識に合わせて佛さまはお寺やお仏壇の中にいらっしゃると決め、疑いなく過ごしてきた考えが初めて《そうではなかった》と聞くのがこのようなご縁なのです。
最初から離れていないのにずっと跳ね返し、引き離してきたのが誤った常識生活だったのです。
そして本当に聞くべき時は、悲しみの時間の中では無いのです。
常識を覆すのは元気な時、若い時、聞ける時です。
誰の人もはやく後生の一大事の解決を。
自分で『私は無宗教です。』と発表しなくても
その貴方を心配され求めようと求めまいと
届いてしまっている佛さまが南無阿弥陀佛です。
人間の側に選びがない宗教、浄土真宗。
南無阿弥陀佛



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