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Mr.Childrenの名曲から佛教の確信に迫る!!

先日は、Mrs.GREEN APPLEの名曲から佛教を味わったのでミセスからミスターへバトンタッチ。


ミスチルの曲は浄土真宗の要素を含んだ歌詞が多く見られます(。・_・。)

櫻井さんの感性は驚くべきものがあります。


例えば、進化論の中では


変わらないことがあるとすれば

皆、変わってくってことじゃないかな


これはまさに《私》という存在は一瞬一瞬変わり続けているという真実

決して変わる事がないから真実と言える


さて、今回取り上げる曲は【 Documentary film 】


誰の目にも触れない ドキュメンタリーフィルムを

今日も独り 回し続ける

そこにある光のまま

きっと隠しきれない 僕の心を映すだろう

君が笑うと 泣きそうな僕を


これはおそらく自分の人生を俯瞰した映す自分と映される自分を相手に置き換えて

聴いていくのかなと想像をしてみます。


日頃、佛教が響くかどうか試す相手は連れ合いである妻(;・∀・)

今日も車の中で質問してみました。


私 「 自分が認識する前にすでに相手が先にいるって状況分かる? 」

妻 「 は? どういう意味? (スマホをいじりながら) 」

私 「 自分が出会う前から相手が先に生きているって事。

    出会った時には生きている者同士が会う訳だけど、会わなかったとしても

   その人はどこかにすでに生きているでしょ? 」

妻 「 あぁ。それなら何となくわかるかも! 」

私 「 出会う前から相手は居るけれど出会わなければ居るかどうかは分からない。

   つまり《無い》ものと同じだよね。 」

妻 「 確かに。 」

私 「 でも出会って自分が相手を認識する時には相手が居るのではなくて

    認識した頭の中で判断した相手を見ている状態なのわかる?」

妻 「・・・・」


ここで会話終了(-_-;)


自分の頭を覗いてみるとこのような論理が展開されています。


① 私に認識される前から存在しているものがある。しかし、私は認識することが不可能。

② 認識した時には自分の頭を通した《認識されたもの》として相手を見てしまっている。


認識することが出来ないという事は私にとっては《無》と同じ状況である。


気づきようが無い! しかし

気づいた時には認識される前の《ありのまま》は失われて私の都合に変形された相手を頭で描いてしまっている


どちらが元々の状態かと言えば


私の認識にかからない状態 _| ̄|○


それは考えようがない・・・考えられたら消えてしまう純粋性


ここまで行き着くともう1つの視点が見えてきませんか?


線がない場所に線を引いて《自分の都合で》世界を自分の生きやすいように捻じ曲げている者がいると教える視点。


私が見ている世界は、認識して自と他をバンバン分けて見ている世界。

その世界が間違えているぞと教える答えがすでにある。


この順番が大切なのです!


私に認識されたらアウトなのに私に間違いでると認識されている状態は

一体どのような状態か


それは・・・


認識できない側から《私に認識できる姿で現れている》


だから私はそれを認識する事が出来ている


その言葉が 南無阿弥陀佛の一言 (。・人・。)


つまり、南無阿弥陀佛は私の言葉ではなく佛の側が私に認識される為に現れた姿


私に認識された瞬間に 私(自)とあなた(他)と分け、その分けた世界の相手は相手のままではなく自分が見た相手の姿、つまり出鱈目。


分けられない世界を分けなければ認識できないものに向かって

分けられない側が出鱈目のものに認識される時

ここに新しい関係が見える


南無阿弥陀佛と私 

南無阿弥陀佛が我であり、私は汝(あなた)


南無阿弥陀佛と称えられている状況は

佛が私に向かって「あなたよ。」と喚びかけつづけている状況


私の世界は私独りの世界

だから誰の目に触れることもないし

誰にも知ることができない独りの世界

しかし、その私にただ1つ私を分かる方がいる

なぜなら独りの理由を知っているから

認識という一点で世界を分けていくしかない私

その私が目当てであり、独りだけれど1人ではないことを教える言葉が

南無阿弥陀佛であり、南無阿弥陀佛が佛さまそのものである


隠しきれない僕の心を映す

しっかりと見逃さず

片時も離れること無く映し続けてくれる光の佛さま

                             南無阿彌陀佛



 
 
 

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