〜《遇う》を深める話〜亡き人と会う
昨日は、49日満中陰のご法事でしたm(_ _)m
お勤めをした後でお骨を《とある場所(海)》へ散骨する事に決めていますとご報告を受け、全部散骨してしまっても良いものか・・・とご相談がありました。
いつの間にか流行り始めた散骨や樹木葬ですが
このメリットは一体どこにあるのでしょう?
① 故人が生前に決めた事だから(意志の尊重)
② どこででも手を合わせられるから(どこでも繋がっている)
③ お墓であると限定された人しか入れないから(お墓を必要としない)
④ 永代供養もついているから任せられる(昔の檀家制度の延長)
書き出してみると・・・
お寺に参らなくてもの良い、好きな時に個人で手を合わせられる
これと言ってメリットと言えるものはありません(^o^;
では、海に散骨する意味とは?
今回のご相談は、故人さまの故郷の海へ散骨という事でした。
ちょうど散骨が流行し始めた頃に
『 海に散骨すれば地球はほとんど海だから
どこの海にでも手を合わせればお参りになりますよね! 』
と仰る方がたくさんいらっしゃいました。
その方が散骨された海は、やっぱり《故人が生前好きだった海》でした。
本当に海ならば《どこでも同じ》でしょうか??

海だけでなく樹木葬でも当てはめる事が出来ます。
樹木を選ばれた方はそこに散骨された訳ですから何かしら理由があるはずです。
しかし、そこに故人がいらっしゃると思うその樹木とは何でしょう?
海や樹木、宇宙もそうですがこれらはまとめれば
自然
人間元々自然(進化の過程)から生じてきたのだから自然へ戻そう!と考える人もいるそうです。
何が問題かと言えば、生前に選んだ埋葬場所であろうと故人が好きだった場所であろうと
人間発生の場所であろうと・・・その場所を選ばれた人にしかその選ばれた世界はないという事です。
ご遺族が海に散骨されたとしてもその海は《故人の見ていた海》とは違います。
もっと言えば《海》という言葉だけでも連想される景色は1人ひとり違います。
それは、樹木や自然でも同じです。
どのような言葉の歴史を持ち、どのような景色を見てきたかは
自分自身の好みが周りと一致しないことがよくある事を振り返れば分かります。
それで本当に手を合わせていると言えるでしょうか?
そして、その場所に行けば本当に会えているのでしょうか?
浄土真宗がいのち終えられた方を佛さまとして敬い、手を合わせられるのは
これらとは異なる《遇い方》であるからです。
その《遇い方》は、一人ひとりが全く別々のいのちを歩みながらも
共通の言葉を依処とされてきたからこそ《遇う》といえる世界です。
その言葉が南無阿彌陀佛なのです。
この言葉は、我々が使っている言葉と出所が違います。
出所が違うというよりも人間世界の言葉ではないので
人間世界の知識や経験からでは《会う》事が不可能な言葉です(;´∀`)
だからこそ南無阿彌陀佛という言葉が今称えられている事は驚くべき事なのです!
《会う》事が不可能な言葉に今《遇えている》不可思議。
それは佛さまの側が私に届いてこなければ《遇う》ことは出来ない言葉なのです。
南無阿彌陀佛の根源から届く《南無阿彌陀佛》ですから
その種を大切にされた方が生まれていく場所は根源です。
同じ根源を今いただくからこそ我々は自信をもって手を合わせ遇う事ができます。
亡き人に会う世界ではなく、佛さまとなられた亡き方と遇う世界です。
※ 実は法名もこの世界を結びつける大事な名前であります。
故人さまに付けるだけの名前にとどまりません。
南無阿彌陀佛



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