top of page
検索

お彼岸の季節がやってきました!

5 日前
読了時間: 5分

明日から秋のお彼岸が始まります(*´∀`*)世の中はシルバーウィークと言っていますが・・


お彼岸は秋分の日と春分の日の前後3日間を我々のご先祖が大切に過ごしてくださったからこそ今日までずっと続いている佛教週間(慣習)です。


お彼岸と言われるくらいですからこの期間だけはせめて!日頃聞かない、忘れている佛さまの話をお寺に参って聞かせていただきましょう。


そこで浮かんでくるのが


なぜ、お彼岸に佛教を聞かなければならないの!?


という問いです。


本日、1日葬のご縁をいただきましてお勤めをしてまいりました。

そこでもやっぱりご参詣の方々は日頃佛教を聞かれない方が多いです。

そこで浄土真宗はこうです!佛教はこうです!!と話しても伝わるわけがありません(^o^;

むしろその話と亡き方がどう繋がっているの?と余計難しくさせてしまいます・・・


そこで最近思いついた話が


 人生と宗教は、どのような関係か?


世間では宗教という文字や言葉を聞いただけで怪しいと思われるそうです。

しかし、そう思う理由はその境界線を知らないからではないでしょうか?


怪しい宗教のイメージは、


真剣に一生懸命に信仰すれば・・・

    病気が治る

   お金持ちになれる

   長生きできる など


      欲望を叶える為の道具として思われていませんか?


これは、宗教でもなんでもありません。ただの人間の道具です。


人生を豊かにしていくのは人間の生活を送るうえでは当然の営みでしょう。

その為に科学は発達し、昔に比べると知識量は増え、たくさんの言葉も産み出されました。

医学が発展し治らない病が治癒するようになりました。

経済が豊かになり衣食住に困ることもなくなりました。

しかし、そう順調に誰でも進むかと言えば努力しても成果があがらない人もいます。

同じ病気でも他人は治癒したのに自分は治らないこともあります。

そのような時に腹を立て、絶望し

『 なんで自分だけ・・・ 』と思うことも多々あります。

そこに甘い言葉の誘惑が待ち受けています。


『 あぁ。上手く行かないのは貴方のご先祖が・・・。 』

『 流れを変える為には◯◯を購入する必要があります。 』

『 そんな気持ちではだめ! もっと真剣になって! 』


この流れで宗教が人生に侵入してきた為に現代は境界線がなくなってしまっています。


  本当の宗教の役割。それは!


人生を支える土台。前回も紹介しましたが、地面にいきなり家を建てる人はいません。

高ければ高いほど基礎工事は深く深く準備します。

その土台が無いままに人生をつき進み

地位や名誉、財産、健康を得ていった時にその努力が一瞬で消え去る時が来ます。

そして、いつやってくるかも分からない瞬間です。

例えば、地震や火事などの自然災害が起こった時、交通事故に遭遇した時、

診断結果によって余命宣告を受ける時、その日に何が起こるかは誰にも予想できません。

だからこそ基礎工事をしっかりしておくのがお彼岸という週間でもあるのです。


さて、その基礎工事で見えてくる事実とはm(_ _)m


地面から上に建っている家、家は私自身とすると

柱や扉や屋根などの部分は知恵や知識、言葉、それによって得た人間関係や地位、富、健康、美貌等に当たります。

つまり、見えている家というのは人間生活で得てきたものであり、怪しい宗教と思われているものはその生活を根拠の無い《もの》で固めていこうとするものです。

所謂、その場しのぎです。


では、基礎工事がしっかりされた上で家が建っているとどうなるか?

宗教の役目
宗教の役目

人生をいかに豊かにするかという話ではなく、その《人間》とは一体何か?という視点。

それは、人間の本質、人間であるがゆえに誤る世界観を知らされるという事です。


1番最大の誤り、それは《言葉》です。

我々は言葉の概念に縛られる生き物であります。

その中でも最初と最期を《誕生》と《死》と名付けてしまったように

先人の知恵や医学の知識を信用して、亡くなった方や自分自身もそうなると

信じてしまっている状態を継続させています。(基礎工事無しの世界


宗教、特に佛教が基礎工事となると自信をもっていえる理由は、

まさに佛教はこの人間の言葉に間違いの根源があると見抜いたからこそなのです。

地面の上に家が建っているのが当たり前の世界から

土台が実はあるのであると悟られたのが佛さまの智慧なのです。


なので、この話を聞いたことが無い方には《聞いた事がない世界》のまま存在し

この話を聞いて確かにそうだなと聞き受けた方の世界では、上の状態を無明という事が見えてきます。

無明の状態で我々の日常言語は生まれてきました。

その代表が《誕生》と《死》になります。

そして、医学もその概念を言葉と状態で示すしか術がありません。

本当は人間には《生》も《死》も分からないのです。分からないのに《分かったことにしよう》と暗黙の了解で過ごしてきたのです。


誰かのいのちの終わりに仏式のお勤めがされる意味もここにあります。

そのいのちをご縁として家の土台に目を向けてくれよという願いが仏事に他なりません。


もう1つ佛教は人間の弱点を教えてくれます。ここが大切φ(..)

《分からない》という事を《分からないまま》にしておいては先に進めません。

その為に《分かろう》とします。全部は分からないけれどここまでは《分かったことにしよう》とします。これが人間の性質であり、間違いの元。

人間というのは《分かる》事をしないと表現もできず、他人との区別も付けることができないのです。(自分の名前もその1つです)


分けられないものを言葉によって分けてしまうがゆえに

どんどん繋がりが切れていってしまう世界。これが人間の世界です。

孤独という言葉がありますが、繋がりを切ってみていく世界では大人数でいようが自分独りです。

そして、最終的に自らのいのちも生と死に分けてしまっているのです。


基礎工事があるのとないのとでは

起こる現実に変わりはありませんが

その現実をどのように受け止めていくかで

天と地の差が拡がります。

どうぞお彼岸にはこの基礎工事の部分をお寺で聞いて下さい。

お待ちしております!!

                         南無阿彌陀佛


 
 
 

コメント


bottom of page