お仏壇って何?〜現代の闇〜
佛教、殊に浄土真宗の話を伝えていこうとすると
どうしても
南無阿彌陀佛の意味とは?
とか
阿弥陀如来とは?
のような《いきなり浄土真宗》の話を始めがちな今日この頃です(^o^;
しかし、目を世間に向けてみると
実は、まったくこの段階の話ではなく
むしろ仏教とは何か以前の問題である
お仏壇って何? 必要なもの?
という会話を頻繁に見かけます。
日頃、お彼岸やお盆などで接しているご門徒さまにはお佛壇の意味を説明しているので
このような会話になる事はありませんが、聞いたことが無い方のイメージが物凄く遠ざかってしまっている現実を直視いたしました・・・(これはヤバい)
そう感じたので本日はお佛壇についてです。
まず、世間のイメージやこの問いに対する答えの共通点は以下の2点です。
① ご先祖をお祀りする場所
② 人それぞれ捉え方は自由
たくさん答えが溢れていましたがまとめるとここに落ち着きます。
①は、よくある勘違いです。
というのも名前を尋ねてみれば《お佛壇》ですから
佛さまをご安置する場所、つまり佛さまの家になります。
ですから、佛さまと成られたご先祖に手を合わせるならば問題ありませんが
亡くなられたご先祖に感謝する場所として見ていくならばそれは佛壇ならぬ先祖壇になります。
そして、最近多い危険な間違いは、②の《人それぞれ自由》という思考です。
これが1番危険です。なぜならその根底には
人間の考え・経験がすべて
という思い込みから人それぞれ自由だよね、だって人間の考えが正しいのだから。
これはつまり《自分自身の考え方に間違いはない》という思考です。
なので、この問いに対する答えで多かったのは
『 私は、◯◯のように考えています。 』
『 私は霊能力者です。考え方はあなたの自由で構いません。』
『 私は〜と思っています。 』等
おのおの自論を述べて、参考程度に促していました。
ですが、これもやっぱりお佛壇ではなく【人間壇(自分の自由な世界壇)】になります。
なぜ、名前から尋ねようと考えられないのでしょう?
昨日、興味深い本に出会いました。

ここに《待つ》という行為が絶滅しているという一文を拝見し、まことにそうであるなと思いました。
待つ時間に絶えられない、ゆえにSNSで問いを発信しすぐ集まる答えに飛びつく、そして
その中から《自分のすでにある答えに近いものを選ぶ》か《知らなかったけれど最適解を選ぶ》という選び方、又はAIに尋ねて答えを導き出してもらうという手段によって最早《考える》という事、問いを深く掘り下げる時間が絶滅しているのでしょう。
しかし、ここに大きな落とし穴があります。
お佛壇とは佛さまの家、それは私自身が佛さまを尋ね、佛教を聞かせていただく場所。
即ち、人間が抱える大きな問題について答えを与えられる場所です。
それは、人間の知識や経験からでは答えが出せないからこそお佛壇という場所をご先祖は用意して下さいました。
『 人間では解決出来ない問題がたくさんあるんだよ。だから佛さまを尋ねなさい。 』
この先人のメッセージを受け取る、背中を仰ぐ場所がお佛壇といっても良いでしょう。
これは何より先にお佛壇を通して先人が聞かれてきた佛法と同じ話を自分自身が聞く事になります。
その話とは・・・人間問題の解決。
家を建てる時に地面にいきなり柱を立てる事はありません。
(三匹の子豚ではレンガの家が助かりますが、地震や台風、河川氾濫ではどうでしょう?)
まず基礎工事をしっかりとするように
佛教(佛法)は、人間としての基礎工事にあたります。

1番最初の問いに戻ると
お佛壇は必要でしょうか?という問いは
基礎工事なしに人生を歩むのと同じです。
このような問いはすべて人間生活の上から生じるもので
人間そのものの問い、答えを無視して歩む人生ですから答えはずっと
出てきません。m(_ _)m
そして、家だけ立派になった人生、地位や名誉や知識・経験を豊富に貯えても
やがて必ず手放していく時がやってきます。
さらにはその過程において挫折する時もあります。相手を利用し利用される歩みは
人を憎み羨むものにもなるでしょう。そのような時に基礎工事が有るか無いか、
支えとなるものと出会っているかどうかで全く違う世界が展開するでしょう。
必要か不必要か。役立つか役立たないか。損か得か。
その問いがなぜ生じるか?を問題にしているのが佛教です。
お佛壇無くして本当の人間生活はありえないといっても過言ではありません。
お佛壇は私のものの見方(私のいのちの見方)にずっと問いを投げかけているのです。
南無阿彌陀佛



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