JPOP音楽から現代を考察〜SEKAI NO OWARIのあの歌詞から自分と向き合う佛教の話〜
- 本清寺 浄土真宗本願寺派
- 1月12日
- 読了時間: 4分
SNSのアルゴリズムの怖さ。
発信する内容が佛教や宗教関係が多いので流れてくる内容も大体似たような内容で・・・
中でも《魂》に関する話が多く見られます。
皆さんは魂が有って欲しいですか?(-_-;)
魂が有って欲しい方の傾向を見てみると
若くして大切な方を失われた、逆縁の方、予期せぬ事故や天災によって準備がなく迎えられた別れを経験した方に共通しているようです。
『魂ってあるんでしょうか?』
このような問いに対して100件を超える返信がされていました。
有ると無いでは有るという答えが多かったです。
では、その答えを信じたとして問題は解決するでしょうか。
これに関連する内容がもう1つ流れてきました。
『6年経ってようやく納骨することが出来ました。
優しい人でしたからきっと満足してくれていると思っています。』
これに対しても肯定的な答えがたくさん見受けられました。
今朝の新聞の表紙にChat GPTを活用しているのは25歳以下が多数を占めているとありました。相談相手がいない、対人間より答えが明確、そして優しいからとありました。
《自分の気持ち肯定してくれる相手》
相手が必要なのではなく《自分の気持ち》を肯定してくれる相手
これは、すでに自分の決めた答えを後押ししてくれる相手を選んでいる自分がいます。
しかし、厳しいかも知れませんがそれは本当に【大切な方】と向き合っていると言えるでしょうか。
そして1番の問題は多くの肯定している方々は、相手を肯定してあげているようで
相手が向き合いたい相手とさらに距離を離してしまっていることに気づかねばなりません。
今回取り上げるSEKAI NO OWARI のhabitは見事に指摘しています。
君たちったら何でもかんでも
分類 区別 ジャンル分けしたがる
ヒトはなぜか分類したがる習性があるとかないとか
この世の中 2種類の人間がいるとか言う君たちが標的
持ってるヤツとモテないやつとか
ちゃんとやるヤツとヤッてないヤツとか
連日の投稿であげている《認識》以前と以降
認識したが最後、私という人間はそこから《関心》と《無関心》に分け
さらに《関心》のなかで《好き》《嫌い》《どうでもいい(無関心)》に分け
まさにジャンル分けしていく習性があります。
そしてジャンル分けした者同士だけで共感し、反対のものを排除していきます。
認識以前の話に気づかず、以降を当然のように日暮らししているのが私という姿ではないでしょうか。
『 魂はあるのでしょうか? 』
この答えをすでに有るに持っているあなたは、肯定される答えを求め
自分が向き合うべき答えを他者に委ね、同じような答えを肯定として受け止め
自らの選択に安心している。
それは、相手の話ではなく自分の心をさらに固めて反対の答えを打ち砕く為の準備なのでは。
『 きっと満足してくれていると思っています。 』
これもやはり思っていますとついているように自分の心を見ているからこそ
6年納骨せずにいたのだから《きっと(不確か)》そうに違いないと暗示をかけている姿。
このような姿は昨今人気になり始めている永代供養墓も見事に当てはまります。
『これだけ長年お世話してきたし、自分ももう身体が動かなくなってきたなぁ。
きっとあの人も良い所にいってくれているだろうし、お寺の方も優しい人だから・・・
きっと・・・きっと・・・。』
これは、答えが不確かにもかかわらず自分のやってきた行いを振り返り自分で自分を安心させている姿です。そして周りも同じような方々が多いからきっと大丈夫と共感者のみで答えを固めて慣習化してきた日本の闇とも言えるでしょう。
当然、永代供養ですから成仏を目的とされているとは思われますが
この分類分けこそ成仏とは縁遠い誤りであると気づきましょう。
何に心が向いているか、気付けるのはいのちある今だけです。
今回はSEKAI NO OWARIのあの歌詞から自分と向き合う佛教の話でした。 南無阿弥陀佛




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