〜ご門徒さんとの会話から学ぶ〜お経
ご門徒という言葉は、東京では馴染みないかもしれませんが浄土真宗をいただく仲間の事を
同じ法門をいただいて歩む徒(仲間)、ご門徒(もんと)と親しみをこめてお呼びいたします。
檀家という言葉は、江戸時代の制度によって浸透していった新しい関係を表す言葉です。
この場合は、誰かが亡くなった後のお世話をするのがお寺でありそのお世話をお願いしお寺を支えていくのが檀家の役目になります。
さて、我々は浄土真宗ですから生前におみのりに遇い、南無阿彌陀佛のおいわれを聴聞していく中で徐々に人間そのものの姿とお救いの中身をいただいていきます。
( 聴いたから救われるのではなく、お救いの中で中身を聞いていきますm(_ _)m )
そのご縁が年始やお彼岸、お盆のお宅参りになっていくわけですが、先月のお彼岸の時に
あるご門徒さんからこのような事を尋ねられました。
『 お経の中に《我》と出てきますが、あれは私の事ですか? 』
僧侶からすれば毎日のお勤めで目にする《我》という字ですから
当然のごとく
《我》 = 《佛》、または成佛前の《菩薩》
となります。しかし、よくよく考えてみれば通常ご自身が文字を読んでいて話の中に我と出てくれば《私》を指していると思われても仕方がありません。
この視点を見逃していたと同時に、このご門徒さまのお蔭で僧侶以外の方のひっかかるポイントを教えていただき嬉しくなりました。

上の写真の様に、令我於世 速成正覚 抜諸生死勤苦之本と説かれたり
日常のお勤めで目にする《讃佛偈(さんぶつげ)》や《重誓偈(じゅうせいげ)》でも
願我作佛 斉聖法王 過度生死 / 讃佛偈
我建超世願 必至無上道 斯願不満足 誓不成正覚 / 重誓偈
このように《我》という文字がたくさん出現します。
実は、このご質問は物凄く大切な問いであると今更ながら気が付きました。
というのも佛さまってどのような方か考える時に人間の頭ではまったく考える事が出来ません。そこでお釈迦様は、智慧と慈悲という言葉をもって教えてくださいました。
智慧とは、いのちの一体感
慈悲とは、痛みの共感
ここでピンと来られた方がいらっしゃるでしょうか?
お経とは、お悟りを開かれたお釈迦様が説かれたものです。
お悟りを開かれた方を佛さまと呼ぶのですが、お経をもう少し深めて拝見してみると・・・

このようにお釈迦様が説かれる場合は、法蔵や法蔵比丘と名を指し示しておられます。
そして、その法蔵が師佛に対して言葉を発せられる時に《我》という一人称代名詞になっています。
つまり、お釈迦様の言葉の中で法蔵ご自身の言葉が重なりあっている事になります。
さらにさらにこの《我》という一文字には、先程の智慧からご覧になられている事が讃佛偈の前後で確認することが出来ます。
《我》の目当て、それは生死勤苦之本を抱えているもの、《汝》=《私》が背後に隠れている事が分かります。なぜならばいのちの一体感、あなたはわたしであり私は貴方であるという世界だからです。
そしてそして浄土真宗の要中の要であるこちら↓

48願のすべてに《設我得佛》と説かれます。そして、ご本願(王本願)である第18願には、唯除五逆誹謗正法とあるように《いのちの一体》であるにも関わらず除くとありますから生死勤苦之本を抱えている私、五逆を犯し、正法を誹謗している《私》を救う為に
《我》と現れ出てくださった佛さまが南無阿彌陀佛であると分かります。
また、その前の17願を窺ってみるとさらに《我》の凄さを目の当たりにします。
設我得佛 十方世界 無量諸佛 不悉咨嗟 稱我名者
諸佛が我が名(南無阿彌陀佛)を稱えると説かれてあります。
ありとあらゆる世界の佛さまが南無阿彌陀佛を稱讃されると。
お釈迦様は佛さまです。あれ? となりませんか?
お経を説かれたのはお釈迦さまです。
そして、その内容は南無阿彌陀佛の話です。
なぜ、お釈迦様が南無阿彌陀佛を説かれたか?
それは、すでに南無阿彌陀佛の側で願いが起こされていたからに他なりません。
ここからも《我》という一文字がいかに深い事か。
お釈迦様自身、南無阿彌陀佛を説くには昼夜一劫かかっても説き尽くすことは出来ないと仰る理由がうかがえます。
浄土真宗は、佛法のはたらき(活動)そのものが私(汝)を救わんが為に
《我》と立ち上がられて南無阿彌陀佛と届いてくださったおみのりです。
今回は、ご門徒さんのたった一言から浄土真宗を掘り下げてみました。
これがあるから南無阿彌陀佛はお楽しみなのです(*´∀`*)
南無阿彌陀佛



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