なぜ仏式で勤まるのか??〜法事大切〜
- 本清寺 浄土真宗本願寺派
- 11 分前
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おそらくほとんどの人が抱いている疑問がこちらではないでしょうか?
1日葬であろうと直葬であろうと
お通夜や葬儀(告別式)であろうと
なぜ、仏式で勤まるのか?
菩提寺があるから・・・
先祖代々お寺さん呼んでいるから・・・
何となく呼んだほうが良さそうだから・・・
世間体が・・・
これでは仏式で勤まる理由の答えにはいたりません❌️
最近、30年程前の仏教雑誌を読み漁っている中で興味深い記事を発見しました。
日本の心理学者で多湖輝(たごあきら)さんという方がいらっしゃいました。
その方がこのような実験をなさったそうです。

女性『 きゃ〜!!助けて〜! 』
と録音した音声を教室に聞こえるように別室から流しました。
① 教室に学生が1人でいた場合
② 教室にたくさんの学生がいた場合
すると結果は、1人だけの学生は直ぐ様立ち上がり走っていったそうです。
問題は複数でいた時です。
耳は傾けるもののキョロキョロと周りを見回し、誰かが見に行くだろうと立ち上がるものはいませんでした。
①は、《自分1人》だけしかいませんから『自分が行かねば誰が行く!!』という我が身の問題でありました。
しかし、②は《自分が行かなくてもまぁいつか誰かが行ってくれるだろう》と他人事でした。
これが様々な場面でも同じ様に当てはまり、佛教を聞く時にも見事に当てはまるのです。
我々人間は集団生活の中で暮らしています。
その人間の常識は、、
「人間いつかは死ぬよね。」
と誰も疑わずに生きています。
疑わずに生きているけれども
誰一人としてその《死》について答えを持たぬまま
いのちを終えていっていしまいます。
《いつか死ぬ》という問題は、誰も代わってくれない自分自身の問題であるにも関わらず終わってしまうのです。
本当は大切な誰かが亡くなる前に
みんなで答えを聞いておくべきなのですが
集団という枠組みがそれを遠ざけてしまっているのです。
まだ、私の順番ではないから平気だよね!
佛教って年寄りが聞くものでしょ?
人間、死んだら終わり。今を楽しく過ごしましょう!
と周りに合わせて過ごしてきた結果、佛教に関心が無くなってしまっているのです。
なぜ、佛式で勤まるのか?
それは、誰かのいのちの終わりを通して初めて《自分自身のいのち》の問題であると
気付けるからです。
本来ならば解決出来ていた問題が、とてつもなく大きな非常識という《死》にぶちあたった時、やっと耳が開けるのです。
昨今の葬儀式を見てみると生きている側が亡くなった方を
《まごころ》込めて見送るだけで
人間側の自己満足で終わっている傾向がかなり強いです。
佛教は、信仰心でも宗教を信じるという話でもありませんφ(..)
人間が人間である理由、私が私として成立出来ている理由が明らかになる真理です。
だからこそ
大切な方は、肉体は終わっても《いのち》は決して終わることがないと
確実に言えます。
それは生死を超えていく世界。
そこに価値を見出していきましょう。
どのような法事でも意味を変えていけます。
南無阿彌陀佛



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