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〜年始参り〜

本清寺の年始参りは2日から一軒一軒ご縁を結ばせていただきます。

各地では大晦日に除夜会(じょやえ)、そして1日に修正会(しゅうしょうえ)が勤められています。それも尊いご縁になりますが一家一家の深い話は難しくなります。

有難いことにお寺の周りから遠近各地でお仏壇が置いてあるご門徒さまが多いので

年始、春彼岸、お盆、秋彼岸と年に4回、また月命日を勤められる方もいらっしゃるので頻繁にお会いする機会が増えます。


さて、本日は新たな問いをいただきました。

日頃は、その方のお連れ合い(奥様)が相手くださるのですが今日はご主人。

そして、そのご主人のお母さん。


以前に奥様からは


『なぜ嫁ぎ先のお仏壇を私が管理しなければならないのでしょう?』


嫁がれた方ならば誰しも抱く問題についてお答えした事があります。


この答えは簡単です。

皆、お仏壇ではなく先祖壇として拝んでいるから管理の必要性が問題となるのです。

お仏壇は、御本尊の佛様をご安置し先立たれた方を佛様として敬っていくものです。

しかし、先祖壇として拝むならば血の繋がりがない方は他人になりますから

人間性を敬ったり、いのちの大切さに感謝は出来ても関係性が無く、また複雑で険悪な関係の場合には尚更意味を見出せなくなるのです。

お仏壇は、佛法と私自身が向き合う場所。つまり、ご自身のいのちと自己や自我が成立する根拠を尋ね、答えを与えられるのがお仏壇です。

そうしますと血の繋がりがなく他人と受け止めていたご先祖は、他人と自己を成立させるために無くてはならない存在であり、生死の意味を教えてくださる大切な存在となります。

人間の思考だけで見ていく世界と佛法を依処として見ていく世界ではまったく違う世界が展開していくのです。


ご主人の問いは、幼い時に弟を失われた記憶。かれこれ50年経過しても理不尽な事件や事故のニュースが流れる度に弟のことを思い出すそうです。


「忘れない事が供養になるのか。忘れてあげることの方が供養になるのか。果たして供養になっているかどうかわからないけれど・・・」


ポロッと言った言葉にお母さんもこのように仰られました。


「私も未だに週に3回はお墓参り行ってしまうものね。」


この言葉に対してはっきりと申し上げる事が出来ませんでした。


佛教に照らし合わせて答えてしまうならば供養とはならない。

親子ともどもに若くしていのち終えられた子であり弟を忘れてしまっては可哀想である、

反対に忘れてあげないとこの世に束縛されて供養されないのではないか?

何回もお墓参りに行ってあげることで寂しくないようにと親心であり兄心。

その想いは大切にして欲しいので否定したくない


子(弟)という掛け替えのない存在に御本人が縛られてしまっている状態。

このような状態は親しい方を失われた方は陥りやすくなります。


肯定の中でご本人が佛様と向き合っていただける転換


「あ、そうか。私はずっと貴方を想っていたと考えていたけれど

 本当は自分で自分の心を誤魔化していたのか。そうであって欲しいと

 自分の考えを信じ込んでいたのか。

 私が思おうと思うまいと貴方はとっくに佛様に成られていたんだね。」


実はこの一家のご宗旨は浄土真宗ではありませんが

浄土真宗のお経で良いからお勤めして欲しいと関係が始まった一家です。

南無阿弥陀佛が届かないいのちは無いからこそ

聞いていく中で必ず向きが変わる


私も連れ合い(奥さん)の祖父が往生し

浄土真宗の葬儀をお願いしていたけれども違う宗派の僧侶から引導を渡されてしまった際

そのお坊さんがこのような事を言っていました


「お母さん。お孫さんも参ってくれて良かったね。

 ご主人大変喜ばれているよ。いい供養になりますね。」


私「?」


このご宗旨は、生きているものが亡き方を大切に想い、親族で丁寧にお勤めすることが

供養になると言いました。

でも、本人は浄土真宗を選び浄土真宗に生きられた方ですから追善供養は必要ありません。


ここの違いをご遺族1人1人が納得し向き合う事によって

いかに供養という言葉が勘違いされ、供養と思っていたものが供養になっていないかが明白になります。おそらくこのご門徒さんも似たような事を言われたのでしょう。


菩提寺から離れていく人が増えていく中、この問題は早期に解決しなければなりません。

意味のない法事から意味のある法事へ。

                            

                                 南無阿彌陀佛

 
 
 

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