〜遇うという事〜人はなぜラブレターを書くのか
昨日は、先週新潟県でお会いした井上見淳先生の研鑽会が東京で開催されました(*´∀`*)
東京では、浄土真宗を明らかにされたご開山・親鸞聖人の顕浄土真實教行証文類を学ぶ会で3回目を迎えました。
学ばせていただく度に新しい発見があります。これが何と言っても嬉しい事です。
点と点が線で繋がっていくのがリアルに感じられる空間。
さて昨日は総序(そうじょ)と呼ばれる言葉を丁寧に教えていただきました。
ただ説明するのではなく爆笑を誘う語り口調や飽きさせない工夫が見淳先生の惹かれる所です。
その中で佛説観無量寿経の全容を話された時、先月北海道布教の帰りに飛行機で観た映画が繋がりました。
観無量寿経は、親子の悲劇が説かれるお経です。
出生前の因縁を知った子が母を牢獄に幽閉し、父を殺めてしまいます。
その後、王になった子は家庭を持ち、我が子を育てていると懐かしむように母が亡き父の話しを聞かせます。
『 あなたが小さい頃にね指が腫れてしまってね。
お父さん、貴方が痛みで泣いて眠れないから
ぐっすり眠れるように抱っこしてね・・・
腫れた指から流れ出た血や膿を吐き出さず飲み込み続けていたのよ。
でね、眠った後でも抱っこし続けていたのよ。 』
それを聞いた王は、殺めてしまった事を後悔し始めます。
確かに生まれる前や隠されてきた話は恨めしい事でありました。
その時の父は自分にとって敵でありました。
ところが自分を大切にしてくれていた話を聞き、やっぱり父は優しい父であったと
変化したのです。
後悔した王は、どんどん精神も肉体も蝕まれていきます。
そこで頼りにしたのが耆婆大臣、この大臣はお釈迦様に救いを求めなさいと促します。
実はお釈迦様とこの王の父は昔から繋がりがあり、お釈迦様を敬い教えを聞くほどの関係でありました。
ですから、王は父を知っているお釈迦様の話や大臣、母によってすでに亡くなって会う事は出来ない父と再び出会い直していく事が出来ました。
この話と飛行機で観た
【 人はなぜラブレターを書くのか 】

の内容が見事に一致しました。17歳の子を失った両親が24年後に手紙が届き
そこで自分たちが知らなかった我が子の姿と出会っていくのです。
《相手》を知っている誰かの言葉や想い出によって
親子であっても知り得なかった我が子の姿に涙を流されていました。
人が亡くなるという事が果たしてありうるのでしょうか。
確かに肉体は終わっていきます。いつ終わるかも分かりません。
しかし、紛れもなくいなくなった後に《出会い直していく》世界があります。
見たことない、聞いたことない、知らなかった世界を知る時
当たり前に使っている《亡くなる》という事を疑わずにはいられなくなります。
王が亡き父と会ったように
両親が亡き子と会ったように
人間の世界でさえこのような事がある
ましてや佛さまと成って再び遇うという真實は
佛さまと成られた方々が自分の世界に還り
自分を同じ道へ歩ませる佛法の中で出遇っていくという事は
見たり感じたりする世界ではなく
《聞いて》出遇う世界に他なりません。
本当に《遇う》とはどのような事か?
昨日は、懇親会の席でも大変有意義な時間を過ごすことが出来ましたm(_ _)m
南無阿弥陀佛




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