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お寺の意味〜続・仏教とご寄付〜

10月29日
読了時間: 6分

昨日、興味深い本に出会いました(´-`).。oO


未来検索 / 宮武徹郎さん・草野美木さん
未来検索 / 宮武徹郎さん・草野美木さん

この【未来検索】の中で


       グレーター・ギーク  


という言葉を初めて知りました。その意味を読んだ時に

『 あぁ。自分の目指している事はまさにこれだ。 』と感じました。


ずっと仏教の続編を投稿し続けている内容は、これまでの死後仏教という固定観念からの脱却を目指しているからです。

それは、内容からも明らかなように

          死後が有るか無いか?

          佛さまはいるかいないか?

          お浄土や天国は有るか無いか?

          宗教は必要?不必要?

          社会を豊かにするかしないか?


という人間生活のための知識や情報ではなく、人間そのものの仕組みを問題としているのが仏教でした。


つまり、両親を縁として誕生してきた生命体である個々は、当然その家族や親戚の人間社会で育てられていきますから得ていく知識や情報は同じ人間のものを獲得していきます。

そこに仏教が入ってくるとどうなるか?(^o^;


『 その知識や情報は、人間社会でしか通用しないものですよ。

 その情報を信用しているがゆえに【あなた自身】のいのちの見方だけでなく

 大切な方のいのちさえも見誤ってしまっているのですよ。 』


何も知らない時代の私がこの話を聞かされたならば、こう思います。


『 うわっ。仏教ってヤバい。頭がおかしくなってしまった人が集まる場所がお寺なのか。

  近づかないでおこう・・・ 』


このように拒否をするか、否定されたことに腹を立て2度と聞かなくなるか、

人間の知識を絶対として仏教が誤りである事を発信していることでしょう。


まさに、ここが佛教と人間知識の最初の壁です。

人間生活を豊かに快適に過ごしていくことが当然と教えられ、そのようにこれまで過ごしてきた人生の大半です。佛教を認めてしまう、これはそれまで信じてきた常識で歩んできた人生が否定されてしまうと思ってしまうのも無理がありません。


しかし、本当に否定されているのでしょうか?

ここをもう少し冷静に見ていただきたいのです。


お釈迦様も同じく一国の王子でありました。

何不自由のない暮らし、人間の常識的世界に身を置いていました。

そこに《死》という生命の終わりを知った時にたくさんの疑問が生じてきました。


 ・周りは《死》と言って納得しているけれど、《死》を自分は経験する事は出来ない。

  経験するならばそれは《生きている》から《死》とは呼べない。

  体験出来ないものをあたかもその情報だけを鵜呑みにして過ごしている。


 ・《死》は、自分独りの問題である。周りで見ている家族や親戚はついて来てくれない。

  これまで得てきた知識も財も肩書きも皆捨てていかなければならない。

  《自分の身体》と思っていたその身体でさえも見事に置いていっているではないか。


 ・この《私》と言っている《私のいのち》というものが本当にあるのだろうか。


《死》を当たり前のように受け入れているけれども何1つとして分かってはいないのではないだろうかと考えたお釈迦様は出家を決意されました。

(この時点でこの問いが起こったかは分かりませんがお悟りを開かれる前には確実に起こった問いでしょう。)


そして、《死》の時には築き上げたすべてを捨てていくのであるならば

今、《生きている》ということには何の意味があるのであろうか?と考えられました。

捨てていく為に一生懸命毎日過ごしているという矛盾、着々と《死》に向かっているのに

食事をしているのはなぜか、それをさらに遡ると


  なぜ、《生まれてきた》のか?


私が生まれようと思って生まれてきたならば

すでに《私の意志》であるから生まれたとは言わない・・・

私が《生きよう》と思っていきているならばこの身体は思い通りに動くはずである・・・

そして《死》という終わりは、私には経験できない・・・

この《私》は一体何なのか?


ここに人間そのものの仕組み、人間の限界に気づいたからこそ

《お悟り(覚者)》と呼ばれる由縁があるのです。


人間生活を豊かにする、それは《私を快適》にしたり《私の家族を幸せにする》生活でもあります。

けれどもその《私》がどのように《私として存在しているか?》という問いの答えの前には

《私》を快適に幸せにするという行為がいかに自分中心の誤った物の見方であるかが観えてきます。


さて、その世界をまじまじとご覧になられた方がお釈迦様でありましたから

《同じ人間という仕組み》を持つものだからこそ皆《同じ誤り》で世界を見ている、この

問題が自らの痛みとなったからこそお悟り後の生活は、少しでもたくさんの人間を

【苦から楽へ】と目覚めさせていく活動になっていったのでした。


これはお釈迦様が特別であったからそのような力を得たのでしょうか?


いえいえ、お釈迦さまご自身が


 『 私が発見した真理は、発見しようとしまいと本来ハタラキ続けている理である。 』


と仰るように人間という存在、《私》という自我があるものに作用し続けている理なのです。


その理は、我々の目に見たり、触れたりする事は出来ませんが

お釈迦様を動かした生涯を尋ねる時に

その理自体に《理に背くもの》を《理》へ戻そうという作用が具わっている事が分かりました。

それをお釈迦様は佛説無量寿経というお経の中で

理の中からその視座を持って現れ出てこられた法蔵菩薩を主人公として

《理に背き続けるもの》の為に《背き続けたまま理に戻す》佛として南無阿彌陀佛と成佛されたと説かれたのです。


我々の五感では捉えられない佛法を人間の耳に入れるにはどうすればよいか?

その佛法が耳に入らなければ誤ったままのいのちで終わってしまう・・・

そうか。先に佛にする種を一人ひとりに届けておけば良いのか。

その事実を後から知らせ、五感に捉えられるようにすれば良いのか!!


届いている事を私に知らせる手段。

それは1つしかありませんでした。


 『 南無阿彌陀佛(なんまんだぶ) 』


目に見えぬ 慈悲が言葉に現れて


南無阿彌陀佛と 聲で知られる


お寺の役割は何か。この事1つをお伝えする為です。

この事1つが伝わるからこそ《私》の為の場所となるのです。

そのお寺が段々と減っているという事は


人間社会を豊かにする為に

人間が人間を忘れて

知識と情報に操られた人の世界が蔓延するという事です。


元来、お寺は寄付で維持されてきましたが

現代では寄付を遠慮されるお寺が増えてきました。

それはどうなのなかなぁと疑問を抱いています。


死後のお世話では無いお寺、いのちいただいている人間に真實を伝える場所、

それは、お寺が儲かる話でも何でも無く

《私1人》が本当の話を唯一聞ける場所を残す為の寄付であり、その寄付で

また支えられているからこそお寺のものは常に学び、社会に貢献していけるのでは

ないでしょうか。


なので私自身、ご寄付随時受け付けております。

お寺をもっと良くしていきましょうm(_ _)m

一緒に浄土真宗を悦んでまいりましょう♪

お寺は、坊さんの生活場所ではなく佛さま話を聞く場所です。

                            南無阿彌陀佛



 
 
 

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