お彼岸は先人の願い〜お墓参りの前に〜
更新日:9月26日
秋と春にお彼岸という1週間を設けてくださった先人の願いを聞く時間といっても過言ではない、今日はその節目の日です。
『 お彼岸が終わります。 』と言ったほうが伝わりやすいかもしれませんが
お彼岸が終わることは無いので違う言葉を用いてみました。
終わるという事は何かが始まるという意味が含まれています。
そこからしてもお彼岸は終わりも始まりも無い、不変の世界なので
此岸から言えば節目であるのかなと思い・・・
お彼岸は、日頃人間生活に浸っている時間から人間そのものに目を向けていく時間です。
それは、日常から非日常へ身を置くことによって忘れていた、知らなかった人間の土台を
しっかりと持つ為の先人からのメッセージであり願いです。
知らないという事は、人間そのものを知らないという事ですから
人間生活を送っていてもそれは人間の常識、日本人のルールの中で暮らしているだけで
満足してしまっている状態になります。
そうではなく土台を持つ事で初めて土台の上に乗る生活はたとえ急に崩れ去ろうとも
土台に帰る事が出来るのです。
土台の上に乗るものとは、衣食住を満たすための知識や財、地位などです。
これは《生》のみを満たす生活です。《死》や《老》を前にした時にはそれらは何も支えてくれません。ましてや家族もその問題に対しては手を出すことが出来ません。
だからこそお盆やお彼岸にお墓参りを大切にしてきたのではないでしょうか?
現代ではお墓参りというとお礼や近況報告で終わってしまっているようです。
それだけでは本当の問題に辿り着く前に終わってしまいます。
中国の道綽禅師は
前に生まれんものは後を導き
後に生まれんひとは先を訪(とぶら)へ
連続無窮にして願はくは休止せざらしめんと欲す
無辺の生死海(しょうじかい)を尽くさんがためのゆえなり
とお示しくださったように
人間生活で終わるならば無辺の生死海は尽きる事がありません。
なぜならそれは迷いの世界の連続であるからです。
だからこそ先に生まれたものは《人間そのもの》の土台を教え導き
後に生まれたものは訪ね、聞かせていただくのです。
その場所がお寺です。
お寺で土台を聞かれた先人のお骨を納める場所がお墓です。
聞かれた内容を今度は我々が聞かせていただく期間がお彼岸でありお盆です。
本当は毎日聞いてほしいけれど、それだけだと人間生活は満たされない、
満たされないと聞く余裕は生まれません。
せめて、せめてこの1週間だけは耳を向けて土台を持ち
人生を歩んでいって欲しいと今でも願われている先人の聲を聞く、
それは、会ったことがない方と本当の意味で遇う世界が開かれていくという事です。
《人間そのもの》を聞いたという事は
人間であるものならば当然土台は同じですから
同じ話を共有したことに他なりません。
会えども会えず、聞けども聞こえずの世界が人の世界。
何に遇うか
何を聞くか
お彼岸週間は今日で節目を迎えますが
どうぞ思い立ったが好日、お寺にいつでも参って
土台を聞かれて下さい。
今日はこれから霊園へ閉墓(遷仏)法要に向かいますが、閉墓しようとも
佛縁は続いていきますm(_ _)m
誰へ向けられている先人の願いかを訪ねれば
《私1人》、そして佛さまが心配されているのは
気づかずに真實に背き続けているものです。
佛教は、私を人間にする為に経由しなければならない
人間であるならば必ず経由する宗教です。

南無阿彌陀佛



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