《 ◯◯という存在を親という 》 〜親ガチャや自分ファーストという誤り〜
- 本清寺 浄土真宗本願寺派
- 1月15日
- 読了時間: 2分
前回back numberの新曲で佛法を味わった流れで今回も名曲【手紙】から。
最近多い見出しに『◯◯とは?』『◯◯って一体?』というようなものがあります。
すでにある言葉に対して答えが分からないから◯◯とは?という問いになります。
そうすると今ならばチャッピーが『◯◯とは〇〇です。』と答えてくれます。
その答えを真に受けた方は、◯◯が正しいと思いますから
◯◯でないものは間違っていると思います。
では、テーマである親とは何でしょう?
AIの答えは・・・
一般的に子を生んだ者、または子を養育する者を指します。その定義は視点によって以下に分類されます。
①生物学的親 ②法的親 ③社会的・心理的親
これを信じた結果、親ガチャという言葉や昔ならば「生んでくれと頼んでいない」といったような言葉が出てきたのでしょう。
特に現代はすでに定義があってその定義に当てはまらないものは誤りであると
思っている方が多いように感じます。
しかし、本来逆ではないでしょうか?(。・_・。)
親とはこのようなものである。という決められた答えが先にあったのではなく
◯◯のような方を親と呼ぶ。
膝すりむいて帰った日は
なぜか僕より痛そうで
そんな記憶が形を変え今も
離れていても守られているんだ
あなたはずっと手を振って笑ってくれた
帰り道迷わないように
もし前を向けなくなった時も 振り返れば
いつも見えるように
【手紙】のMVでは母と子の関係で描かれていましたが
これは何もこの関係だけに当てはまるものではありません。
《いつでも どこでも 私の事で頭がいっぱい》
これを親と呼ぶのではないでしょうか。
その気持ちをいっぱい受けた側は「あぁこの人が親だったのか。」と悦べる。
親ガチャという言葉は、自分ファーストとも繋がりがあるように感じます。
人間関係の《親》がいなかったとしても
私の事で頭がいっぱいの《親》がいます。
それを昔から
「南無阿弥陀佛は親さまじゃ。」と皆が皆同じ親を持ち
その親の子である自分は《佛の子》と大変慶ばれました。
あなたの苦しみを我が苦しみである
あなたの痛みは我が痛みである
あなたの喜びは私の喜びである
常に私とご一緒であるからこそ
私のことで頭がいっぱいである佛さまを南無阿弥陀佛という
それを親という
親を知るから自分ファーストがいかに貧しいかを知らされます。
南無阿弥陀佛




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