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《中陰を調べてみる》

なぜ、葬式仏教と呼ばれ始めたのか?

なぜ、お坊さんといえば死後からなのか?


確かに死後からご縁が結ばれる事の方が多い現代ですが、日頃年始、お彼岸、お盆とお宅参りをしている私からするとどう考えても


①お宅参りをされていない  

②お寺に参る機会が無い  

③参っても会話をされない


この3つが葬式仏教にならざる負えない理由かと思います。

その原因は何であろうか・・・

これまたお寺の側に問題があるとしか言えません。


昨日、とあるSNS媒体で葬式仏教について発信すると


『 葬儀が終わった後にグジグジ文句を言う人が多い。これも葬式仏教に加担しているの

  だから文句を言うな。 』と厳しい意見が飛んできました(^o^;


そうかもしれませんが、やはりこの意見も筋違いで

お寺の行っている事が葬式仏教を生み出しているはずである!!と仮定して

四十九日(満中陰)、納骨法事が勤まる仕組みを調べてみました。


追善をしなければならない理由
追善をしなければならない理由

お釈迦様が説かれた【因縁果の真理】。

原因は様々な縁によって次から次に結果を生じ、その結果は因となり再び縁によって

変化し続けるという真理です。

1つの原因が1つの結果を引き起こすのではなく、たくさんの縁によって変わり続ける、

それを諸行無常(時間)・諸法無我(空間)と説かれました。

それは、何処か誰かの話ではなく《私》がそうであると悟られたのがお釈迦さまご自身、その事を発見しその真理に身を置かれる方を佛(目覚めた方)と尊称します。


これは以前にも話したかもしれませんが、私が縁起的存在であるという事は

【私】という単体や【私の◯◯】という固定的な実体は無いという事です。


これがお釈迦様の説かれた佛法でありました。しかし、お釈迦様が涅槃に入られた後・・・


その説かれた内容が、一体誰に対して、どのような者に対して説かれた教えであるのか

研究するグループが現れました。

当然の事で【聞く相手】がいなくなってしまいましたから【自分に向いている教え】を

知らなければ佛さまには成れません。ですから真剣に研究されていったのです。


そうなると1つの問題が浮上します。


無我とは固定された私は存在しない事。では、私は無いのか?というと

現に考え行動している私がいるではないか。その私は何なのか?

《無我でありながら行為する我がいる》、これが私の本体だ!!

閃いてしまったものが出現しました・・・


【佛法に身を置く自分】と【佛法に身を置けない社会生活】


100%身を置けているものは佛さまでしょう。

ならば、このような図になります。




お釈迦様は人間である間にお悟りを開き、そのまま涅槃に入られましたから

流れのままに人間の佛さまが佛さまに成られただけの話です。


因縁果の道理に当てはめ、人間として生きてきた行為を考えてみるとφ(..)

そう上手くは話が進まなくなります。

佛教を学び、修行をされている方でさえ気が遠くなる程に長い時間をかけて佛さまを目指している(三大阿僧祇百大劫)のに、人間社会に身を置いているほとんどの人々はどのような結果を招くか?


そこで上のようなサイクルが考えられました。中有という期間です。

有名な閻魔大王は五七日に待ち構えています。七七日目に生まれ変わるらしいです。

つまり人間として生きてきた様々な行為のエネルギーを蓄えた種がどこかに生じていく種と

なる訳ですが、どこに生まれるかは【どのように生きてきたか?】が重要になります。


それを振り返った時に佛教に反して生きてきた時間の方が遥かに長く、修行をしている方でも気が遠くなる時間を費やす道のり・・・生まれ先は・・・・


そこに追善が自然に出てきます。

え! 他人がやった事が自分に加算される? そんな事ある??

それを回向(えこう)と言いますが、難しい理屈は置いておいて、それは可能なのです。

(佛さまはあなたは私であり、私はあなたであるという世界であるから)


ここまでは何も違和感は無いのですが・・・


七七日で次の生まれ先が決まる、それはすでにどこかに生まれているという事実。

どこに生まれたかは分かりません。

ですから一周忌や三回忌等のご法事が勤まるのだ!!という話になっていく。


ここに違和感が生じるのです!!


百箇日という法事もありますが、これは卒哭とも言われます。

四九日や十三回忌等の数字。

そもそも七という数字は、六道から抜け出した数字とも言われますが

この数字に執着している辺りがすごく中国文化(儒教、五行など)を匂わせます。


つまり、佛教が国を渡る間にその土地々々と混ざり合い、その流れが日本にも伝わったといって良いでしょう。


何より問題は三十三回忌で弔い上げとも言われていますが(^o^;

それまでも、それからも亡き方は【迷い続けている】かもしれないし

そこまでかからずに【成仏されている】かもしれない、誰も答えを知ることはなく

自分の順番がやってきているのですよ!!


人間として生きている行為、その中で数回仏事を勤める+僧侶→亡者(三十三回忌)→?


何も解決しないループがずっとご遺族を巻き込んでいる現実。


というより勤めれば勤めるほど佛教から離れていっている事に気がついていません。


気が付きましたか? 


因縁果の道理は、人間として生まれる前にも遡れる事を。


葬式仏教に焦点を当てると図の下ばかり意識が向きます(未来のみ)が

遡れるという事は、何度もこのループを繰り返してきた私の話にも目が向いていきます

(未来と過去)。


ここが実は浄土真宗と他の宗派の決定的な違いとも言えます。


追善回向しなければならない宗派は、亡者のこれまでの罪業をご遺族の善で帳消しにしましょうという未来の話です。それは、死後から始まる営みと言えるでしょう。

葬式仏教が無くならない理由です。

人間を全うした後、今(死)からこれまでの過去を知っていく世界。

ここにも違いが見えてきます。引導を渡すという作法は、亡くなった方の何かを想定して【渡す】という事が可能になります。渡す側は、はっきりと何かを知っていなければ、いや実際に観えていなければ不可能でしょう。


浄土真宗が追善をしない理由、それは

今、南無阿弥陀佛の佛さまに攝取されているからです。

攝取されているという事は、私のすべて(過去・未来・現在)が攝取されているという事。


そこには、いのち終えてからでは間に合わないほどの罪業を抱えている私という姿と

その私を必ず佛にするという南無阿弥陀佛の側の覚悟が行為として現れ、回向されています。


『 南無阿弥陀佛(なんまんだぶ) 』


今、称えられているあなたの聲がまさにその証拠。

この度のいのち終えた後は、追善は不必要でありご遺族も心配なし。

むしろ今度は佛さまとなってご遺族を案じ、ずっと一緒にいる佛となりますから

ご遺族に安心を届けられます。


ここから葬式仏教が果たして成立するかどうか。

自分に間に合う佛法は何かを検討してみてください。


私は、葬式仏教反対というより無意味なので世の中の人に早く気づいて欲しいと念願しております。

                                  南無阿弥陀佛



 
 
 

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