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《亡き方の偲び方を思考する》

あえてタイトルにしませんでしたが、本日はお釈迦様が涅槃に入られた日です。


    涅槃会(ねはんえ)


バレンタインデーの翌日である

2月15日は、全国で法要や布教大会が勤まっていますm(_ _)m


さて、ここで気になるのが《涅槃に入る》というフレーズ


『 え? つまり、お釈迦様が亡くなられた日でしょ? 』


と表現すれば良いのに・・・と思われた方!


そこが大事なポイントになります。


インターネットや本ではお釈迦様は佛教を説かれたと書かれている事が多いです。

しかし、正しくは【 佛法を発見され、一人ひとりに伝わるように生涯説き続けた 】。

そうです。佛法を発見され、佛法に身を置かれた方だから佛さま(ブッダ)と尊称します。

そのブッダが説いた教えであるから佛教というのです。


そのお釈迦様がこのように説かれました。2つ紹介いたします。


「如来、世に出ずるも及び世に出でざるもの法性は常住にして・・・」


「法を見るものは私を見る。私を見るものは法を見る。」


この2つを組み合わせれば


『 私がいようといまいと佛法は常にはたらいていますよ。

 その佛法がもつ性質が私にはたらかれたからこそ私は発見できました。

 だから、そこに身を置きましたからどうぞ私のいのちが終えようとも

 《死んだ》と思はずに、佛法に入った(生まれた)と思いなさい。

 常住である佛法に私はいますから、あなたも佛法に身をおきなさい。

 そこに私(佛)がいます。 』


この言葉が誰に向けられてあるのでしょう?


《私》 に向けてです(^人^)


涅槃を佛法に置き換えると尚分かりやすいかも知れません。(細かく言えば違うのですが)


亡き方を偲ぶ。それは、亡き方を単に《亡くなった、死んだ》と受け止めていくのではなく

佛法を聞き、佛法に生きられた姿を通して

私自身が佛法に遇わせていただくところに

お釈迦様が仰ったようにその佛法の中に

《その方》がいらっしゃる。


この言葉は、佛法を知らない人が聴くと都合の良いように

解釈してしまう恐れがあるので安易に用いることは出来ませんが

1人ひとりが佛法を聞く中で、1人ひとりの世界に

確かにいのち終えられた方が私に佛法を聞かせようとはたらかれていることが

いただけていきます。


佛教は、いのちいただく今に聞かせていただきましょう。

涅槃会をご縁に亡き方の偲び方を考察してみました。

                             南無阿彌陀佛

紅梅で遊ぶメジロが撮れました
紅梅で遊ぶメジロが撮れました

 
 
 

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