今聞かずいつ聞く?〜念仏とは〜
昨日は、小平市の小平駅近く、小平霊園すぐ近くの聞光山照恩寺さまで布教のご縁でした。
出発前に長女からおまもりを貰いました。

神様にお願いするよりも大切な家族から心配されている想いが何より支えになります。
であるからこそこのいのちを本当に支えてくださるものと出遇う事は一大事です。
さて、今回1番の喜びはたまたま結ばれた1日葬からのご縁からお住まいも照恩寺さまの近くという事もありお参りを奨めておりました方が何と参ってくださっているではないですか!!しかも御夫婦揃ってm(_ _)m
これこそ私の考えている浄土真宗の繁昌です。
《うちのお寺の門徒》という括りを超えて《親鸞聖人から預かった法の友》を東京で
拡げていく、アミダファンクラブ。
第一号が誕生した瞬間です。
それと同時に浄土真宗を聞き慣れたベテランの方々から数回聴かれた方や初めての方がご参加の空間でいかに南無阿弥陀佛をお伝えするかという問題もいただきました。
初めての方を置いていかない、何度聞いても分からない方も良かったと思っていただける、ベテランの方が悦べる布教とはどのようなものであろうか?
そんな事を痛感した1日でした。
① 人間が使用する言葉と佛さまの言葉の違い
② 一般的に世間でイメージされる佛教
おそらくここの入り(違い)をしっかりとお伝えしないと
浄土真宗の話はまったく入ってこなくなるのではと感じました。
これは聞いてくださる方の表情でも分かります(;´∀`)焦りの瞬間
① 【 言葉の違い 】
人間が使用する言葉は、コミュニケーションの道具であり、何かしらを表現する為に
用いられています。約50万年〜100万年前からジェスチャーやリズム・音を超えて
狩猟やその為の道具を作る時に声をかけ始めたと言われています。
すでにある状態に名前を付けたり、新しく完成したものに名前を与えたり・・・
目に見えない・理解できない現象に名前を創ったりしました。
その言葉の歴史を踏襲しているのが現在用いている言葉です。
つまり、言葉とは人間が表現を伝える為に作り上げた道具です。
② 【 一般的な佛教のイメージ 】
これは、今でこそ浄土真宗という名前は有名ですが浄土教がひろまり始めた時代では
僧侶という身分は、人里離れた山に籠り、師匠の教えの通りに厳しい修行をされ佛さまに少しでも近づいていこうと命懸けでした。それは何の為かと言えば・・・
佛さまに具わる智慧と慈悲を獲得する為
智慧とは、いのちの一体を観る力。慈悲とは、一体となるが故に生じる他者への痛み・共感です。
あなたのいのちは、私のいのちである。あなたの悲喜は、私の悲喜である一体の事。
佛さまを目指すとは、このような道を歩む事です。(これが意外と抜けています(^o^;)
一般仏教の救いとは何か? と問われれば
智慧を極めることによって見えてくる《自分の認識していた世界の誤り》に気づき
いのちは一体であると改めていく。
《転迷開悟》
これを土台とした時に浄土真宗の救いとは何か?
それを一言で 南無阿彌陀佛のお救い と言います。
この南無阿彌陀佛を最初に聞かれる場所は、誰かのお通夜・葬儀等のご法事であると思います。その時にお坊さんが
『 お念佛申しましょう。南無阿彌陀佛(なんまんだぶ)とオトナエください。 』
とご案内されます。それにつられて声に出す人もいれば出さない人もいらっしゃいます。
ですから最初この南無阿彌陀佛は
【 坊さんに言わされている言葉 】 から始まるはずです。
言わされた言葉ですからその方の頭の中では人間が作った言葉というイメージで植え付けられていきます。そして、徐々にご法事を重ねる度に
『 あぁ。この言葉は亡き方の為に使用する言葉か。 』と理解されます。
これくらいになると
【 言う→トナエル言葉 】 に変化しています。
その後に仏教を学ぼうと思われた方は
【トナエル→唱える(お念佛)】 に変わるでしょう。
鎌倉時代からのお念佛は、この唱えるが主流でありました。
このお念佛を用いて自分が目指していく佛さまを定め、教えの通りに修行し成佛を目指していかれます。この時のお念佛は、まさに心が揺らがないようにブレないようにする為の道具化したお念佛です。または回数を定め、何回唱えればこれだけの効果がありますよ。だから真剣に唱えましょうというような《引き換え》の為の道具です。
それをひっくり返されたのが法然聖人であり親鸞聖人でありました。
それをたった一文字で明らかにされたのが浄土真宗のご開山と呼ばれる親鸞聖人のご苦労ともいえるでしょう。
〜稱〜
言わされていた言葉 → トナエル言葉 → 唱える念佛 → 稱える念佛
この南無阿彌陀佛は《稱える》念佛であり言葉であると教えてくださいました。
この漢字はハカリを表します。お肉屋さんに行ってお肉を買う時に
ハカリの上にお肉をのせて下に◯◯グラムと目方が出ます。上にのるお肉の重さは
《見ただけでは分からない》けれども《目方を見れば分かります》。
今、私の口に『南無阿彌陀佛』と稱えられているこの言葉は
私の上に佛さまがのっかっているからこそハカリのごとくに稱えられています。
ここを分析すると
《 稱えられている南無阿彌陀佛 》 と 《 稱える南無阿彌陀佛 》
ここを尋ねられたのが親鸞聖人というお方です↑m(_ _)m
私に稱えられる為にはまず《稱えられる言葉》とならなければなりません。
これはどのような事か?
南無阿彌陀佛は人間が創った言葉ではなく
《智慧と慈悲》の世界からご覧くださった佛法の側が
一般仏教の道を歩むことができないものを《我が痛み》として
なんとかせなばならないと《私に知らせる》為に
考え抜かれた願いが願いの通りに完成(成就)した言葉が
稱えられている南無阿彌陀佛の本体であるという事です。
佛法の側が人間である私に知らせる為にその世界の表現である《言葉》と成って届いた佛の言葉。
誰の為かと言えば、私の為でしたから
私の《稱える南無阿彌陀佛》は願われた力のはたらきがそのまま出ている証拠になります。
さてさて、その南無阿彌陀佛がどこに聞こえてくるか?
自ら稱えた南無阿彌陀佛が自らの耳に聞こえてきます。
しかし、それは自分の言葉、人間のコミュニケーションではなく
元を辿っていけば明らかなように
南無阿彌陀佛の源泉から届く佛さまの言葉に他なりません(*´∀`*)
どう届いてるか?
『 貴方は、その迷いの世界からこちらに生まれてきなさい。
貴方の問題は全部こちらで引き受けたからどうかどうか
死ぬと思はず、私の世界に生まれてくると思いなさい。
どうか佛となっておくれ。 』
これが南無阿彌陀佛です。
そして、今度はそこから佛さまが願わずにはいられなかった《私の姿》が見えてきます。
なぜ、願いを起こされたか? なぜ、南無阿彌陀佛と成らねばならなかったのか?
お救いの中で私の有様がしつらわれていく歩みが始まるのでした。
今回は布教の反省を踏まえて浄土真宗のお念仏について書いてみました。

南無阿彌陀佛



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