仏教の視点って・・・
- 本清寺 浄土真宗本願寺派
- 7月1日
- 読了時間: 6分
今日から7月ですね(;´∀`)ハヤイ
先日、久しぶりに布教のご縁をいただきました。

布教使の資格をいただく研鑽の場での時に言われた先生の言葉を思い出しました。
『 布教は、話す度に下手になっていくよ。 』
これは衝撃でした。
話せば話すほどに場馴れもし上手くなっていきそうなものと当時は思っていましたが
段々と分かってきた気がします。
というのも元々、佛さまのご覧くださっている世界は我々が用いる言語では表現出来ない世界です。
それを佛さまのお使いとして伝えていくのが布教使ならば
表現できないものを表現しなければなりません。(^o^;
という事は、相手に分かりやすく伝ってしまったという事は
我々が用いている言葉によって理解した範疇であり全く佛さまの世界を伝えたことにならないという事になります。
さて、ずっとこだわっているお釈迦様の伝説があります。
【 四門出遊(しもんしゅつゆう) 】
これは、一国の王子様であったお釈迦様が家来とともにお城の外で見られた4つの現象のお話です。
東門では老人、南門では病人、西門では弔いの行列、北門では当時の修行者。
この話を最初聞いた時、これは一体何の話だ? と感じました。
それもそのはずでごく当たり前の話だったからです。
当時、私の年齢は24歳。その頃には人間の成長過程や行く末などの知識は持っていました。その知識でこの話を聞きましたから
『 お釈迦様ってただの世間知らずでは・・・ 』
実際、お城を出られたお釈迦様は家来(友人)に尋ねているのです。
『 あれは何? 』
『 はい。あれは老人です。 』
『 そうなの。あれは皆なるの? 』
『 はい。なりますよ。 』
『 私も? 』
『 はい!あなたも漏れる事なくなりますよ。 』
それを知ったお釈迦様は悲しくなりお城に戻りました。
ここから考えられる事は
① お城の中には【老病死】という姿が隠されていたという事実。
(父である王様が見せないようにしていた可能性もある。)
② お城の中の住人は、《皆そうなる》にも関わらず、愉快に呑気に過ごしていた事実。
お釈迦様がここで苦しみ悲しみを抱いたからこそ城内の人間が浮いて観えたのでしょう。
なぜ、皆大きな問題を抱えているのにその事に目を向けずに暮らしているのか?
そして、なぜ自分はあのような姿をみて苦しいのか?
特に感じたGAPは、おそらく弔いの行列でしょう。
毎日のようにいのちが終わっていく、年齢も関係なく・・・
当時のインドでは、死後に生まれ変わる事を信じていました。
しかし、皆絶望し涙を流し悲しみに沈んでいるではないですか。
生まれ変わるという事も本当の話なのだろうか?
そこで北門で見かけた行者の清々しい顔に
きっとこの問題を解決したからこそあのような顔をされているのだと
お城を飛び出したのです。(出家)
そこで知らされたのは人間が持つ欲望でした。
満たされたい欲望が強いから老病死という現実を目の当たりにすると
それが奪われてしまう事に恐怖するのだ。だから欲望を考えないようにしなさい。
そして考える事さえもやめなさい!!と教えられます。
けれどもお釈迦様はこれでは問題解決しないと捨てられました。
(この方法では死んだ時に問題が解決するだけであると)
では、お釈迦様が悟られた真理とは一体なんでしょう?
四門出遊には3つの見方が窺えます。
① 人間の常識・知識で見た時→ 老病死は誰でもなる。(当たり前)
② お城の内と外で対比した時→ 若・健康・生・人間と老・病・死・修行者
理想と比べた時、成りたくない姿に苦しみを感じる。
①は他人事で暮らしている人であり、②は自分がそのような身となるのだから避けよう延ばそうとする人です。両者とも人間であるならば当てはまるはずです。
お釈迦様は②からさらに問題を深めていかれました。
老いたくない私、病みたくない私、死にたくない私・・・
あれ。今の私の姿はどうだろうか?
必ずそうなる約束はされてあるもののまだその状態にはなっていない今の私。
その私を満足しているだろうか?
【苦】というものを引き起こしているのは一体誰だろうか?
あぁ、この《私》が《苦》としていのちを見ていたのか。
生まれたものがいのち終えていく、若いものが年老いていく、身体あるものは病みもする、
すべて流れているものを《私》が固定させ【変わらないもの】としていたから
その状態が壊れていく事に【苦】を生じさせていたのか。
自分自身のものの見方が間違っていたのか。
では、この《私》が見ていた《私》も間違っているではないか。
赤ちゃんの私、幼い私、子どもの私、大人の私、老いた私、死んだ私と
流れの中で変わらない《私》を固定させているけれども
その《私》があらゆるもののお蔭に支えられて《私》というものが変化し続けているのだ。
つまり、お城の内側と外側という線を勝手に引いていたのは誰か?
ここに人間の問題がありました。線を引かなければ自分と他人さえも区別できない私。
線を引く事によって初めて物事が理解できるというのが我々の世界でありました。
人生は苦なり。と説かれましたが
この【苦】とは、私の思い通りにならない事と言われますが
もう少し分かりやすく言えば
一切すべてのものは変わっていく、変わるとは即ち壊れていくという事です。
今の状態があるという事は言った側から壊れ始めているという事です。
だから【思い通りにならない】現実にぶち当たった時に【苦】となるのでした。
という事は、変わり続けている、成長している今を
もっと素直に悦んでいきましょう!という明るい面を説いたのがこの四門出遊でありました。
お城の中は若く、元気で健康な状態な方ばかりでした。それが当たり前過ぎて
悦びがなかった(麻痺)状態ともいえましょう。突然訪れた老病死に驚き苦しみが生じる事になるのも無理はありません。
もっと言えば、自分が気づけるほどの大きな変化(壊れ)が無ければ気がつけないほど
鈍い私であるという事です。
老いも病も死もいつ起こるか分かりませんが、滅多に起こるものではありません。
それを苦の代表として説かれた事も大切な視点であります。
今回は、これまでの四門出遊の味わいに【一切皆苦】という普遍的な真理を+してみました。
《無常にして苦なるがゆえに無我である》
ここまでは《お悟り》の話、浄土真宗は《お救い》の話です。
これがここからどのように展開していくかがお楽しみです。
仏教は役立つものではなくて自分を映す鏡です。
南無阿彌陀佛



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