《仏教を聞くきっかけ》
- 本清寺 浄土真宗本願寺派
- 4月21日
- 読了時間: 3分
振り返ってみるとお寺に生を授かりながらも仏教を真剣に聞く時間があっただろうか。
このような事をご法事の度毎に思う毎日です。
先週は墓前、炉前、一日葬、通夜葬儀と様々なご法事の御縁を賜りました。
お寺に生まれ、僧侶である私がそうだったのであるから
むしろ日頃社会生活をして、お寺に参る機会がほとんど無い方々が仏教を聞く時間は
まったくないはずです。
しかし、今佛さまと向き合ってみるとこれまでの時間はとんでもない《いのち》の見方をしていた事に気づかされます。
よくお寺に生まれたものは入院患者、参ってくださる方は通院患者と例えられますが
僧侶は余程の重症であったからこそ、そこに生まれさせなければならない佛様のご配慮があったのでしょう。(^o^;
さて、先週のご法事のご縁はたくさんの学びがありました。
その中で浄土真宗の肝心要である
なぜ、南無阿弥陀佛が救いとなるのか?
こちらを初めて聞かれる方にスッと納得していただく方法はないだろうか考えてみました。
我々が生まれてきた人間という世界は言葉が必要不可欠です。
そして、世の中に存在しているほとんどのものには【名前】が付いています。
それは、先人の方々がはるか昔に名付けた名前もあれば
科学が発達した後、発明されたものに名付けられた名前や
また形而上的なもの・人間の理解を超えたものに対して名付けた名前などたくさんあります。
そして、まだ発見されていないものには名前はありませんが発見されれば名前が与えられます。
【 名付け 】
私も授かった子ども2人に名を付けました。
私の名前である匡真も祖父母と両親が付けてくれた名前です。
その延長で南無阿弥陀佛を考えてしまうと
では、誰が名付けたのか? という考え方をしてしまいます。
そうしますと仏教を学ばれている方は、お釈迦様でしょう!!と答えられます。
これが間違いのもとになります・・・φ(..)
確かにお釈迦様は佛法を発見されお弟子に教えを説かれました。
まとめられてお経という形になりました。
しかし、そのお経の中でお釈迦様が
『 これを南無阿弥陀佛といいます。 』
と説かれた言葉はありません。
え?? じゃあ誰が名付けたの??(._.)
その答えが救いと呼ばれる理由です。
名付けられた名前ではなく
南無阿弥陀佛が【南無阿弥陀佛】という名と成るという誓願を起こされたから
我々の世界に《名と成る》ものが存在するでしょうか?
考えてみましたが思いつきませんでした。
《名付けられたもの》はたくさんあっても
自らが自らで《名》と存在しているものは南無阿弥陀佛だけではないかと思います。
その証拠にお釈迦様のご説法である浄土三部経には
南無阿弥陀佛が名と成るまでの果てしのない時間をかけて誓われた願いと永劫の修行の話が
説かれています。
その南無阿弥陀佛が成仏され、すでに1人ひとりのいのちの上に届いていることを
教えてくださった方がお釈迦様ですから、その話を《聞く》ことによって
口から『南無阿弥陀佛』と称えることが出来ます。
つまり・・・
救いの中にありながら救いを知らず(聞かず)に過ごしていましたから
その由縁(いわれ)を聞く所に救いが届くこととなる、
今聞いて今救いに遇うという事が確実に分かります。
悲しいことに仏教を聞くきっかけが誰かのいのちの終わり、死が大きなきっかけになります。
早く聞く人もあればまだまだ聞くご縁が整っていない人もいらっしゃる。
しかし、救いの中ですから間に合うのです。
出来れば若い時に、子どもの頃から聞いていただきたいですが
これを知っている大人が伝えれば伝わっていく話です。
まずは大人が未来の為に真実を聞いておきましょう。
救いの中の時間差は早く埋めてしまいましょう。
南無阿弥陀佛




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