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佛さまの世界は【お浄土】〜死後の世界に非ず〜

昔から根付いてきた考えというものは改める事が難しいようです。

その1つに亡き方の行方、亡き方はどこへ行ったのか?という答えに

場所(死後の世界)を想定される方が多いです。


あの世、天国、そっちの世界、パラレルワールド、良い所など・・・


その人の人生がそのまま反映される世界を希望されるからこそ

素晴らしい、楽しい人生を歩まれた思い出が強い人は、その延長された世界を描きます。


しかし、反対の人生、例えば凶悪犯や貧しく不幸せの人生を歩まれた方の世界は

聞いた試しがありません。


むしろ亡くなったご遺族に対して

地獄や悪い世界の話を切り出すことは不謹慎にあたるでしょう。(^o^;


では、実際にそのような考えがいつ頃から始まったか調べてみました。


遠くは人類の祖先から最近では平安時代の貴族が死後の世界を望みました。


以前、《たましい》について話しましたが、まさにその延長のような話です。

肉体から抜け出した何かは死後にも何かしらの形で存続していくと考えた当時の人々は

生前にどのような行いをしたかによって生まれていく先も変わると考えました。

これは至極当然の考え方です。


良い行いをしていたものは良い所へ、悪い行いは悪い所へ。そして

何かを信じている人は信じている場所へ、行く為の条件があればそれを満たした人は行けるはずと挙げればきりがありません。


貴族は、自分たちの快楽を死後にも続いていくよう望みました。

生きている間も楽しければ、死んだ後も楽しくあって欲しいというように・・・

(これは、欲望の延長の話です。)


しかし、貴族社会は終わりを迎え、次は武士の時代となりました。

武士は、人や武将を征伐することによってどんどん地位や権力を上げていきます。

その武士がある程度の地位に達した時に死後について不安を抱きました。

これまでたくさんの人々を殺めてきた罪は深い、この悪の行為の行先は悪い場所に決定していると思いました。

その考えは当時の庶民にも届きました。屠殺や狩猟をしていのちを奪っている職業、または

安く仕入れ高く売る商売人も生活そのものが誰かしらを騙し、動物のいのちを食しているという事に目が向いていきました。

(この事を現代人におきかえてみると、今はそのことさえも開き直ったような時代になっています。)


悪の世界から良い世界に行く為の手段はないものであろうか?


これは欲の延長では無く、人間が持つ理性的な要請から生まれてきた考えでしょう。


そこで武士や庶民が求めた世界が佛教の浄土でありました。

当時、厭離穢土・欣求浄土と言われていたように

この世は悪が蔓延る穢土であるから来世は少しでも良い世界に生まれられるよう善を積み

そこに生まれていこうという考え方です。


しかし、問題がありました。

当時の佛教は、この世界で佛と成る為に人間生活から離れ自分の生活を律し

正しい生活を行じていく所にお悟りが開かれていくと信じていました。


つまり、武士や庶民が浄土に生まれる為には今の生活を止め

これまでの罪を滅していかなければならないという話に進んでいきます。


そして、浄土に生まれる為には《何をすれば》良いか?と考えた時に

そこに生まれる為の因を自ら作らなければならないという条件が浮上してきます。


武士や庶民は、実生活における理性から起こった悪の自覚。

当時の僧侶は、佛法に反した悪の自覚です。


善を知れば知るほどに悪の自覚はどんどん深まり底が見えなくなっていきます・・・


一体、どこまで頑張れば因が出来上がるのか。

そこから臨終行儀や正念場という言葉が生まれてきました。


頑張った結果は、臨終の姿で分かる。

頑張ったものは穏やかに慌てふためくこと無く落ち着いた姿であるから

佛さまの来迎があると考えました。(お経に説かれてあるのでその言葉を頼りとしました。)


さて、ここまで見ていくと分かる事実があります。


死後にどこに生まれていくか?

それは、人間の欲望の延長の世界や人間の善悪の基準で定められた理性的世界は

どこまでいっても人間が描いた世界から抜け出せていないという事です。

お経に説かれているからその言葉を信じよう!という考えも信じる自分を頼りにしていますから人間の思考から出ていません。


では、佛さまのお浄土、ことに南無阿弥陀佛のお浄土に生まれる為には・・・


それは、すでに南無阿弥陀佛が


『 我が浄土に生まれてきなさい。 』


と仰いますからその言葉を頂戴するほかありません。


こちらから望み求めていくものではなく

すでに与えられている因をその如くいただいていく


人間側の話ではなく、佛さまの側の話を聞くのです(*´∀`*)

もっと言ってしまえば武士や庶民が欣求された浄土は

分け隔てなく平等に救うという南無阿弥陀佛の浄土です。

その浄土を欣求する事が出来るのは

その場所があるから欣求出来るのではなく

その浄土に生まれさせようと場所を用意された佛さまの願いが先にあるからこそ

欣求する事が出来るのです。

それを知らず場所がすでに在ると思って欣求している浄土は自分が描いた世界に過ぎず

最初に問題としてきた人間の思考の延長でしかありません。


根本が問われる時代に突入しました。

                             南無阿弥陀佛

空に魂が行くと考えたくもなる自然の美しさと怖さ。しかし人間の不安を「そうあって欲しい」という安心に変える為の思い込み。
空に魂が行くと考えたくもなる自然の美しさと怖さ。しかし人間の不安を「そうあって欲しい」という安心に変える為の思い込み。

 
 
 

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