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ごっちゃおばけって何?佛教の世界観

まもなく長女が5歳を迎えますm(_ _)m


最近は幼稚園で教わったことを帰宅後にたくさん話してくれます。

その中で「あ〜やっぱりそうだよな。」という事もいっぱい教えてくれます。


   ごっちゃおばけ


ご存知ですか?

お片付けをしなかったり、食べ物を残したりすると現れるお化けだそうです。


どうやら幼稚園で絵本を読み聞かせてもらったみたいで

いつもは中々お片付けをするまでに時間がかかる娘が、あっという間に部屋をピカピカに。


「あのね、お部屋汚いとごっちゃおばけ来るから。ごっちゃおばけ怖いんだよ。」


すると私が留守の間に連れ合いと娘・息子の3人はスマートフォンを使って

ごっちゃおばけを検索したようで


「ごっちゃおばけ怖いね。来ないようにお片付けしようね。」


見事に連鎖していました。


その空間を見た私は


「あぁ、これだな。」と一気に頭は佛教モードへ。(^o^;


家族の中で《ごっちゃおばけ》を知っているのは3人、私は知まったく知らない人間です。


知っている子ども2人には怖い存在、知らない私は怖さどころかどのような姿かさえも分からない。つまり、子ども達には《ごっちゃおばけがいる》、私にはいないという世界が

同じ家の中で起こっているという事です。(連れ合いは怖いフリをしているので今は除きますが、ごっちゃおばけの姿と名前は知っています。)


これと同じ現象が実はすべての人に起こっています。


地球という同じ空間にすべての人は生活しているけれども

私が感じている世界は《私独りにしか通用しない世界》である


言われれば納得出来る話も意外と世間の風習文化の影響を受けていつの間にか


「 みんな一緒だよね。 」という見えない圧力によって


思考が書き換えられてしまっています。


その特徴がお盆の時期に顕著に見られます。


亡くなられた方をお迎えする風習。

迎え火は、空にいる何かを呼ぶために行うそうです。

地上にはお位牌があり、迎えた何かの憑代となる役割があるそうです。


え? 位牌って佛教でしょ?  答えは、ノーです。


これは、佛教を少しかじると答えは明確に分かってきます。


亡くなられた方の《何か》というものを立てないのが佛教の基本。

そして、みんな一緒だよね!ではなく、独りの世界。


このお盆の風習は、まさに《見えない》けれど皆が信じているから合わせる、

皆行っているのに自分がやらないと浮いてしまう、《見えない》けれど

行ったほうがきっと喜ぶはずであると


何の疑問も持たず、周りに合わせてきた歴史が見えてきませんか。


《いない人にはいない》、《いる人にはいる》

《知らない人は知らない》、《知っている人は知っている》


風習や文化を否定しているのではなく、何を未来に伝え残すか?


自分が見ている世界は、自分だけにしか通じない世界であるけれども

その世界の中で《亡き方》をどのように受け止めていくか。

この時に《自分にとっての亡き方》を《皆に共通の亡き方》にしてしまったが為に

未だに


死んだらどうなるのか? という問いに対して様々な分野の研究者が正解を出そうと躍起になっています。


しかし、共通の正解はいつまで経っても出ることはありません。


なぜなら、答えは自分で納得するしかないからです。


《私にとっての亡き方》は《私》に何を教えてくれたのか。


亡き方がどうなったのか? という問いが

私はどうなるのか? と向きが変わる時


独りの世界ではあるけれども1人では決してなかった世界が拡がっていきます(*^^*)

というわけで私はいのち終えるまでごっちゃおばけは調べません。

なので、名前は知っているけれど何かは知りません。

                                  南無阿弥陀佛

一般的なおばけのイメージ
一般的なおばけのイメージ

 
 
 

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