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佛教の救いについて〜浄土真宗〜

8月21日
読了時間: 3分

先日の北海道布教のご縁や1日葬などの初縁の方の反応を通して

最近考えている事があります。


『 浄土真宗の佛さまは、南無阿弥陀佛という佛さまです。

  この佛さまは、1人ひとりのいのちに届き(五体に入り満ちて)

  この口から称えられてある所に佛さまがご一緒であると教えてくださいます。

  そして、このいのちを終えた時に必ずお浄土へ生まれ佛と成らせていただき

  再び迷いの世界であるこの世界に還り、その佛さまが貴方とご一緒であることを

  教え導くために我がいのちとご一緒くださいます。 』


このような言葉を必ずお伝え申し上げます。

ここに浄土真宗のすべてが集約されている訳ですが

初めて聴かれた方や何度も聴かれている方の顔色を窺うとはっきりと・・・


    ???


これは、一体なぜなのだろうかと考えてみると

そりゃそうだよなという結論に至りました。(^o^;


なぜなら、私自身がそうだったのですから・・・


僧侶が最初から佛教を理解しているか、南無阿弥陀佛を知っているかといえば

そのような人はいるはずがないのです。


これは、《救い》を考える上で大切な原点になります。

というのも、1番始めに《南無阿弥陀佛》と仰ったのは誰か?


これを多くの方は、お釈迦様が説かれたと思われています。

ですから

  お釈迦様 → お坊さん → 私


の順番に伝わってきたと考えてしまいます。

しかし、お釈迦様が説かれたお経を尋ねてみれば


 『 遥かはるか昔、法蔵比丘という方が出られてなぁ。

  長い長い時間考えられて48の願いを建て、その願いを成就させる為に

  ご修行されて《南無阿弥陀佛》と成られたんだ。 』 


このように仰います。

だから私(お釈迦様)は、それを教えているというのです。

つまり、お釈迦様を動かしたものが《南無阿弥陀佛》そのものに他なりません。


その《南無阿弥陀佛》のいわれを聞くところに《救い》が開かれていくわけです。

南無阿弥陀佛という言葉が、何を示しているのかを聞くのですが

救いを聴いたから救われるのではなく、救いの言葉を聞き開いていきますから

救いが分からなくても救いは届いています。


そこから《救い》って何??と始まっていくのです。φ(..)


① 南無阿弥陀佛という言葉と人間が使用する言葉の違い

② 人間社会で本当に《身につくもの》があるかどうか

③ ①と②を支える佛教の根本的原理


この3つを聞く事で私にとっての救いとは何か?

そして聞く大切な姿勢として

 《 私1人 》 《 私の為のお救い 》


私がいるから南無阿弥陀佛が届いてくださったという世界が広がります。

その世界が約まっているのが南無阿弥陀佛の48誓願ですから

佛さまの願いを尋ねれば分からない中に分からないまま伝わるものがあります。


それを聞かずに自分の頭で救いを考えても①を抜け出していませんから

救いの答えにはたどり着きません。


ここをいのちいただいている間に皆で聞き悦んでいく仲間を

本清寺はいつでも誰でもお待ちしております(*´∀`*)後生の一大事

家族でリニューアルした千本松牧場へ
家族でリニューアルした千本松牧場へ

                                南無阿弥陀佛

 
 
 

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