供養に迫る!!
8月と言えばお盆です。
東京は7月にお盆のお勤めは終わっているので8月は割とゆったり過ごしているので
布教のご縁をたくさん頂戴し有難い事ですm(_ _)m
さて、お盆と言えば亡き方やお墓参りを多くの方は思い描きます。
そして、インターネットを調べれば
供養・・・供養・・・供養・・・追善供養
『 今日はお寺に参って供養していただきました。 』
『 ご先祖に感謝しながら供養しました。 』
『 お坊さんに来ていただいて家族で供養しました。 』
供養で満ち溢れています(^o^;
しかし、供養とは一体何でしょう?
そんな簡単に我々に供養が勤まるものなのでしょうか?
そこで本日は供養に迫ります!!!
おそらく以前にも供養については書いた事があるのですが
供養の原語はプージャー、プージャナーであります。
尊敬できる相手に施しをするというのが根底にあります。
お釈迦様は供養について
『 私が説いた教えの通りに理解し、その通りに実践している
ものは私を供養している事になるのである。 』
と仰るように、つまり《ブッダの教えの通りに生きる事》が《ブッダの供養となる》というのです。
ここからも供養の難しさ(レベルの高さ)が分かります。
人間の真心や善意の話ではなく、ブッダの教えの通りに実践するという話です。
昔の本の中でこのようなやり取りを見かけました。
ある講義で有名な布教使の方が
『 あのね。佛教は死んだ人の為じゃない!生きているものの為です。
だから生きている者が仏教の教えを聞かなければ何の意味もありません。』
このような事を仰られた。それを一番前で聞いていたお爺さんが終わった後、
参詣者と『あの布教使さんの言った事は本当かね?』と会議が開かれたそうです。
その結果、布教使さんの言い間違いと判断されました。
そこでその事を尋ねられた別の布教使さんが質問されました。
『 なるほど。よく分かりましたが、まずお爺さん。あなたはご法事を何の為と思ってお
りますかな? 』
『 何のため? 当然、亡くなったものの為よ。 』
『 亡くなったものの為というのは? 』
『 そりゃ、良い所に行ってもらうために供養してもらうのよ! 』
『 つまり、亡くなった方の成佛を願って供養してもらうのが法事ですか? 』
『 その通り!! 』
『 今、供養と仰ったがその供養と一体何ですか? 』
布教使の方は黒板に《供養》と書かれました。
『 供は、【そなえる】と読みます。養は、【やしなう】と読みます。
これは略さずに書くと・・・
供給資養 となります。
どの字をとってみてもその意味は、《こちら側から相手に対して何かを与える》であり
亡き方を佛にするという意味は出てきません。例えば京都の御本山に参るとその昔、
《大衆供養》と書かれた手拭いを頂くことがありますが、これは本山から私に役立つよう
にと与えてくださったものです。』
『 それでは、この意味で考えた時に《亡き方(相手)》を《成佛させる》為には
こちら(ご遺族)側から《与える》事によって成立しますが一体何を与えるのでしょ
う? 難しく考えんで下さい。佛様と私と何が違うか?佛さまにあって私に無いものと
は何でしょう?』
それは、善根功徳です。
よその宗旨(浄土真宗以外)では、修行をされて善根功徳を積んで佛を目指していきます。
ですから、ご遺族が善根功徳を与えてあげる事(追送)によって供養が成立する訳ですが実際には無理があります。
なぜなら、《与える》為にはこちらに《与えられる物》がなければならないからです。
『 あなたは、与えられるほどの善根功徳をお持ちですか? 』
『 いや。そんなものは・・・しかし・・・
だからお寺さんにお経をあげてもらっているんじゃ・・・』
『 そうですね。 ご法事ではお経をお勤めします。とするならばお寺さんに善根功徳が
あるであろうか?
否、人に与えられる程の功徳をお持ちであるならば《お寺さん》なんてやっていないで
しょう。すでに佛様になっているはずです。
では、お経自体に功徳があるか? 確かに功徳はあります。しかし、その功徳はその中
身を心身に理解し実現出来るような素晴らしい人でなければ受け取ることはできませ
ん。それ程素晴らしい人が亡くなられたならば何度も法事を勤める必要はないでしょ
う。 では、何度も法事が勤められる理由とは? 』
長い長いやり取りがあったそうです(;´∀`)
誰しもご法事は、《亡き方》の為という想いがあります。
それは、大切に育てられたり、可愛がられたりしたものにとっては《まごころ》を込めて
送り出したいのは当然の感情です。
問題は、追善供養になるかどうかです。
最初にお釈迦様の言葉をあげたように
『《教えを聞き、教えを体現されたもの》は《佛を供養する》ことになる。』
こう説かれました。それは、佛の説法を耳にし感動し、生き方が変わったものの歩みが
そのまま佛の供養となっているという事です。
《与えられたもの》を《与えられた通り》に実践する=供養(供給資養)
もともと《与える》のではなく《与えられたもの》を活かすという意味の方が強いです。
誰かが実践したのではなく、この《私》を抜きには供養はありえないのです。
そう考えた時に
《こちら側》から《相手》の為に何かを《与える》には
まず、こちら側の有様を学ばなければならないのです。
浄土真宗が追善供養をしない理由もここにあります。
《供養するもの》を持ち合わせていない私に
南無阿弥陀佛の側がその私へ供養してくださった名号功徳を頂戴する。
私は、佛さまに供養される側なのです。
供養を考える時には、《供養される私》の本性をまず尋ねてみましょうm(_ _)m
南無阿弥陀佛




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