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功徳を積む?〜功徳って何〜

昨日は、教行信証の研鑽会でした(*´∀`*)

教行信証とは、浄土真宗を開かれた親鸞聖人の人生をかけられた御聖教です。

福岡県よりお出ましくださった井上見淳和上がご講義くだされました。

今回は第2回目。熱く深い内容でした。


その中で最近の疑問であった点が解消されました!m(_ _)m


よく仏教の話の中で【功徳を積む】というフレーズを聞きます。

ですが・・・


功徳って一体何??


積むといってもどうやって積むものなの?

適当にやって積めるものではないだろうし

積めているかどうか誰が判断するの?

たくさんの謎が出てきます。


善行(因)→福徳(果)、その福徳のハタラキが功徳(功用福徳)なのですが


中々ピンときません(^o^;


毎月オンライン研鑽会でお世話になっている九州の成(せい)先生は


善とは性質、福徳は能力、功徳は力用であると。

電球(電気エネルギーによって発光する)は、光を放つ能力があり、その能力が発揮されると周囲を明るくするように。


つまり、佛教ですから善とは当然、佛さまの性質(反するものを悪)であり

その善に従った行いは福徳という佛様の能力を具え

その佛力は、修行者を変革させていく訳です。

ここから我々が考えている善悪基準とは全く次元が違う事も分かりますφ(..)


では、私にその善行が可能かどうか?

という話が昨日のテーマでした。

私の疑問を解決してくださるぴったりの内容でした。
私の疑問を解決してくださるぴったりの内容でした。

親鸞聖人は、『私には何が善であり何が悪であるかという判断は出来ません。』と言い切られました。ですから、徹底的に南無阿弥陀佛を基準ろしていただいていかれました。


善は善でも無漏善と有漏善があります。

無漏(煩悩無し)は佛さまの善、有漏(煩悩有り)は修行者の善です。


これだとはっきりしませんが、親鸞聖人は真実と不実という線引きで善を明らかにされました。

不実の中身は、有漏善もあり善に値しないもの(不実の悪)も含まれています。

不実の悪とは、自分中心のフィルターを通して見ていく行いの事。


自分中心のフィルター


この表現は思いつきませんでした↑

まさにその通りで、周りの人間を分けて考えていく中で

あの人は自分にとって都合の良い人、都合悪い人、どうでもいい人と見ていくフィルター。

その人に対する行いも変わってきます。


不実の善、それは一見善のように見えて善になっていない行為。

讃められたくてやった訳ではないけれど讃められたくなる行為・・・


例えば、細い道を運転中に前から大きなトラックがやってきました。

どちらかが譲らなければ通れません。

こちらは停まるを選びました。パッシングライトで相手に知らせると

トラックは先に横を通過していきました。その時に!!

何事もなかったかのようにトラックが通っていった瞬間


『 お礼ぐらいしろよ・・・ 』

『 せっかく先に譲ってあげたのに・・・ 』


こんな気持ちが湧き怒りに震えます。

お礼を言われるつもりでやった訳ではないけれどお礼を言われないと腹が立つ・・・

あるあるですね。(^o^;


私が行う善とは所詮このような善でしょう。

見返りを求めたり、お礼を期待したり

最初は気にしていなくてもやっぱりされないとモヤモヤしてしまう私。


その私が佛さまの善を行ずる事が本当に可能であるのかどうか。

不実の行をどれ程行ってもそれは不実の功徳が積み上がっていくだけであり

真実の功徳とはなりません。

そして、このような善を重ねた所で我々が生まれていく先は、それ相応の世界です。

(不実の悪を繰り返せば地獄・餓鬼・畜生、不実の善(有漏善)を繰り返せば人・天)

たとえ善の世界に生まれたとしても自分中心のフィルターを通す世界ですから

喜び楽しみ憂悲苦悩悶していく世界、同じ事の繰り返しです。

人間世界は、上から2番目ですから一応善なのです・・・


佛教は、その世界から抜け出す教え。

つまり、不実では抜け出すことが不可能なのです。

言い換えれば因が誤っていますから結果も誤ったものとなります。

ではでは、真実とは一体何か?

親鸞聖人が真実を明らかにされた理由が見えてきます。

親鸞聖人が比叡山で過ごされた20年間は、少しでも善い世界に生まれて

そこで善行を繰り返していく行いでありました。

善い行いをしていく事、それは善の幅が拡がれば拡がるほど

自分自身の悪の範囲も拡大していき、底が見えなくなっていくという事です。


これでは私は救われない・・・


その大きな転機を与えられた方が師となる法然聖人でありました。(この話もいつか)



浄土真宗の本願他力とは、真実功徳の事です。

それは、不実の私を見抜かれた南無阿弥陀佛の側が誓願を立て

私を佛にする為の行を長い時間かけて成就してくださいました。(故に無我の行ですから真実と言えます。)

その南無阿弥陀佛が私に届き、私の聲となって称えられていますから

その真実功徳の内容を聞く、本願他力を聞くという宗教なのです。


虚仮不実の私、その私を目当てに真実が届いている

この二重構造が浄土真宗の要ですm(_ _)m

功徳は積めないのです。

どれ程思いやりを込めて一生懸命行っても自分中心のフィルターを通した不実になってしまうのです。


もうすぐお盆ですね。

実は、このお盆こそ顛倒と言われるように

自分中心の顛倒したフィルターを外す期間なのです。

                           南無阿弥陀佛


先生を囲んで懇親会↑
先生を囲んで懇親会↑

 
 
 

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