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南無阿弥陀佛の救い④〜法事が変わればお墓参りも変わる〜

お寺は誰かの死からお世話になる場所というイメージが強過ぎる為に

今では近親者のみでお別れ会が開かれるのみにまで進んでいます。

ある神社系の芸能人がテレビで仰っていたそうです。


『 神社は生きている人の為、お寺は死んだ人の為の場所。 』


これを聞いた時、あぁこのような宗教者兼影響力のある芸能人でも

何も分かっていないことをさぞかし知っているかのように発信し

その情報を鵜呑みにしてしまう人を増加させているのかと落胆しました。


しかし、この誤りは何もこのK野さんだけではありません。

現代人のほとんどがそう思っているのではないでしょうか?


このような誤りにストップをかけなければ

死後ビジネスや人間だけのお別れ会が無くなることはありません。


人間の欲望の延長線上に死を避けたり、死を概念付けていく行為は

欲望を満足させるだけで、次なる欲望を生んでいきます。


そこに佛教が紛れ込み、死を助ける役割と認識されているのがすでに

この欲望を満たす道具化に他になりません。


さて、昨日でお釈迦様の人生を根本からひっくり返す法の作用(佛法)について

窺ってまいりました。m(_ _)m


ポイントは、老病死という問題に対して苦悩を抱いたお釈迦さまがその苦悩をいかに

解決するかを求め出家されたという事です。

そして、その答えはいのち終えてから解決する方法にあったのではなく

いのちある今に解決する答えがあったという発見でありました。


一体、何が問題となって老病死から苦悩を生じたのでしょう?


老いを感じる瞬間
老いを感じる瞬間

それをお釈迦様は、諸行無常・諸法無我・一切皆苦と教えてくださったのですが

上の《老い》を感じる図を見てみると、この3つが説き示す内容が分かります。


この方の頭に描いているもう1人の自分、それは若かりし時の自分です。

その自分と今の自分を比べて《老い》《悲しみ》を感じています。


あえて《自分》を連発させましたが、老病死を見て苦悩が起こった理由・・・それは


頭の中で固定させている《自分》という存在、つまり


誕生した時の私、幼児の私、少年期の私、青年期の私、病んだ私、年老いた私、死にゆく私、死んだ私と《固定化させた私》を見ているから苦悩が生じるのだと答えが分かりました。


つまり、諸行無常であり諸法無我でありますから私というものは一瞬足りとも


固定することは出来ない


常に変わり続けているにも関わらず、変化を固定し《老》《病》《死》と概念付けたからこそ

ありのままを見る事が出来ず苦悩を生じている、一切皆苦である事を発見されたのでした。


【 私の固定化 】 →我執


有るものを無いようにさせ、無いものを有るように好き勝手に世界を見ていく、

ありのままを見ることが出来ないからこそ【私の固定化】が起こる、これを無明と原因を定め、それを引き起こしているものを断じていく方法を生涯説かれていったのがお釈迦様です。


ここからも分かるように

以前からもずっとお伝え申し上げているように


どこに死後からの佛教、

死のお世話をする佛法があるのでしょう!!


                                 南無阿弥陀佛


 
 
 

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