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南無阿弥陀佛の救い⑤〜科学と宗教〜

先日、友達とのお酒の場で久しぶりに《死生観》の話になりました。

私の周りのほとんどの友人は、最初お坊さんのイメージは死後のお世話係と思っていましたが毎度毎度佛教トークや死について話をふっかけるようになってからそのイメージがひっくり返ってくれました。(*´∀`*)


安心は出来るのですが友人たちの年齢は30歳〜40歳前半、世間でこのイメージを持たれている方の多くは60歳以上の方々がほとんどです。

つまり、友人の親御さん世代がこの勘違いを持っていることになります。


お寺は、老若男女関係なく人間が人間として抱えている根幹の問題を早めに知り

その解決・答えが与えられる場所ですから何としても根付かせたい想いが溢れてきます。


さて、《死生観》の話に戻りますがその友人はこう言いました。


 私の脳が、私だから脳が死んだら私も死にます。 』


脳が私である、それは脳が司令を出し私を動かし私を生かしているという事です。

皆さんは、どう思われますか?


実は、コロナウイルスが流行した頃に脳科学に興味があった私は色々な脳科学者の著書を読み漁りました。それらを読んだ時に思ったことがあります。


あ、ようやく科学が佛教に追いついてきたな・・・


と同時に《脳が私である》わけが無いという答えが結論付けられました。


これは、脳科学が2500年も前に発見された佛教は間違いない真理であると証明したことに他なりません。m(_ _)m


なぜなら、脳は情報処理し司令を出す場所、それは脳だけでは活動できず

身体があるからこそ外部と内部の刺激を感受し、その刺激が情報として脳に送られ

脳が育っていくからです。

現代では心は脳が作り出している事も判明してきました。

ここも佛教は当初から身体と精神はバラバラではなく1つであると説き続けてきました。


脳が私であるならば脳そのものが死ぬならば私は死ぬでしょう。

そうではなくて


あらゆるものの影響によって脳は初めて《自己》を創り出す事が可能になる


今、私が私であると言える《自己》は、これまでの経験や記憶によって描かれた1つの情報がたくさん集まり私を構成しているものであります。


ある時の《自己》に注目することを自意識、その自己を研究し自己分析をするアイデンティティ、その自己と他の自己を分けて育つ《自我》


どれも脳が創り出している自分を自分であると思い込んだ所から描き出している虚構の世界


昔の方々は、科学未発達時代ですから身体の中に《変わらぬ自己》があると信じていました。ですから、いのち終えた後にその身体から自己である何かが抜け出し生き続けると考え出しました。この考えは今でも霊魂やオーラ等言われています。


まとめてみると・・・


人間が《私》と思っている《私》という存在は、実は脳によって自覚された《私》である。

その《私》が生じる以前の私があったにも拘らず、それを切り離し《私》があるといつの間にか疑いもせず生き始めている。

私を私たらしめる内部と外部を忘れて《私単独》がいると思い込んでいる所から出てくるすべての行いは、佛法が教える《無我》とは正反対の行為となる。


私の脳と言える私は無く、脳や心臓、肺、血管、空気、植物、地球、太陽、動物、昆虫・・・ありとあらゆる存在によって《私》が成立している


だからこそ、この身体が終わっても《私》は終わらない


私には死は無い!!と自信をもって伝え遺していけるのです。


私が作ったものは何一つ無い、ただただすでに与えられているものをいただいていく

これを教えてくださるのが私の認識を超え、すでに認識出来るように届いている

南無阿弥陀佛です。

科学は、科学する主体を外に置いて研究する学問ですから主体を問題とする佛教とは土俵が違うのですφ(..)

脳科学と佛教の違い
脳科学と佛教の違い

                                   南無阿弥陀佛


 
 
 

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