南無阿彌陀佛の救い⑥〜宗教と哲学〜
- 本清寺 浄土真宗本願寺派
- 4月2日
- 読了時間: 4分
よく間違われる宗教と哲学、特に佛教は哲学と混同されやすいです。
SNSでちょっとした事を発信すると、すぐ様
『 佛教って哲学みたいですね。 』や『 佛教は最高峰の哲学です。 』と
返信が来ます(^o^;
では、佛教と哲学、その他の学問と何が違うのか明らかにしてみたいと思います。
実は答えは簡単なのですが最近哲学をYoutubeや書籍で学んだので
これらを活かしてはっきりとさせてみたいと思います。
哲学とは? という質問には哲学者の数だけ答えがあるそうです。
ある人は生の意味を変える知的努力であるとか
ある人はいかに豊かに生きるかの為のツールであるとか
ある人は病、麻薬であるとか・・・
哲学を学んでみて分かったのですがよく耳にするプラトンやカントという方々は
原始哲学時代でニーチェで一旦終止符が打たれているそうです(それさえ知らなかった私)
それ以降は反哲学時代と言われているそうで最近ではマルクス・ガブリエル氏という方が
21世紀の哲学者として有名らしく《世界は存在しない》という本が爆発的な人気だったみたいです。
この方の《世界は存在しない》という思考は、見方を変えれば佛教に結びつけられる可能性がありました。
しかし、哲学という以上、どのような哲学でも共通点がなければなりません。
それは、人間という生き物が【問い】を抱き、【考える】という頭
を持っているという事です。
プラトンのイデア(理想)やカントの認識と非認識、ニーチェの各々の解釈という思考方法。他にも善悪や価値観などを論理で持って突き詰めていく、確かに人間というものを磨き上げていくにはうってつけの学問です。
様々な国の文化・風習(ギリシャ、ドイツ、フランス、スウェーデン、イギリス、アメリカ、日本・・・)に生まれ育った人間が、《人間とは何か?》を問い続けた思考を学ぶ事によって人間の人間による人間の為の思考が自らの思考回路に吸収されていきます。
AIがお釈迦さまを哲学者にされていたことには衝撃を受けましたが(*_*)
さてさて、ここまで見ていくと段々と分かってくるように
哲学もしくは心理学も脳科学もどのような科学も
《私》という主体は外に置き、人間の研究をして問いの答え
を導いています。
人間という幅広い概念を《研究者》が様々な地域で研究をするのですから
その答えは千差万別に決まっています。
その思考の良い部分と悪い部分を合わせて考えていけばさらに新たな思考が生み出されたり
または元に戻ったり、言葉や表現は変われどその繰り返しをしていくだけの話になります。
佛教と哲学の決定的な違い・・・それは
《私》という主体は、時代・場所・人種関係なく共通事項。
その《私》がなぜ生じたか、私の世界を私1人が見ている事になぜ気付けないか?
《私》が造り出した世界の中で私だけに通じる言葉や概念で意味づけしている世界を
《迷いの世界》と説かれた、つまり
《自己》から人間や人生を問題としていくか
《自己そのもの》を問題とするか
(これは西田幾多郎博士の言葉)
人生問題か生死問題か(これは金子大榮氏の言葉)
または、現象か原理か(これは恩師の言葉)
この違いで見ていく時、似ているようでまったく似ていない事も
土俵が違うことも明らかになってくるのではないでしょうか?
今朝方届いた著書の本に「自らの死生観」についてのページがありましたが
この方は佛教の生死一如は信じられないと書かれていました(^o^;
《信じる》か《信じない》か
これも又すでに《私》が完成したうえでの私の判断ですから
《私そのもの》に向きが変わっていないと見えてくるのです。
誰にでも通じそうで自分にしか通じない世界です。
マルクス・ガブリエルの《世界は存在しない》という言葉は、この意味で使うならば
皆が共通の世界は存在せず、自分の世界でのみ自分の価値観が描き出した対象は存在していると言えるのではないでしょうか。
もう1つ加えるならば、お釈迦様以前のインドの宗教であったバラモン教、この宗教が形式化した為に登場したものがウパニシャッド哲学ですから出家されたお釈迦様がこの哲学を採用されませんでしたからすでに哲学の領域では無いという事も分かります。m(_ _)m
ナニハトモアレ哲学は面白いです。
すべての学問の土台となっているのが佛教。
いや〜凄いです!!
南無阿弥陀佛




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