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大事な問題〜誰が亡くなるの(死)?〜

9月30日
読了時間: 5分

習慣というものは凄いもので起床時間が3時半から4時になってから2年程経過しました。

この習慣になってから朝に本を読んだり、佛教を学んだりと有意義な時間を過ごしています。

今回は今朝考えていたことをタイトルにしてみました。

この問題は、実は死後からのご縁を多くいただくようになってから夢にも出てくるような大事な問いであります。


というのも誰かが亡くなられた際にご遺族が見ている式の現場と私が見ている現場では

同じ現場でありながら


 《 誰が 》 亡くなられたか? 

                    という視点がまったく異なるからです。


当然、ご遺族の方は故人さまの姿を見て、亡くなられた事実を実感しているのでしょう。


しかし、佛教が説く【 縁起 】 の理法から教えて頂く世界では

その方が亡くなられたとは見ていないのです・・・・


このように考えてみて下さい。

例えば、①《 私の妻 》が亡くなったとします。φ(..)


式場にはたくさんの関係者が弔問に来られています。

まずは、《子ども達》。その子ども達が見ている世界では②《私の母》です。

そして、《兄妹》。その兄妹が見ている世界では③《妹であり姉》です。

《両親》、その両親が見ている世界では④《我が子》です。

《親戚》、親戚が見ている世界では⑤《従兄弟や再従兄弟》です。

《親友》がみる世界では⑥《幼馴染や学校の親友》です。

《恩師》がみる世界では⑦《教え子》、《近所の人》ならば⑧《昔から知っている子》、

《他人》が見る世界では⑨《他人か人間》、、、


同じ人間を見ていても立場によってまったく違います。

そして何よりも亡くなる主体である本人は、『あぁ私は亡くなるのか・・』と思っているはずです。本人が見ている世界の《私》があるのです。


今10の例を挙げましたが、どの方が亡くなるのでしょう?

千本松牧場での1シーン
千本松牧場での1シーン

人間といういのちが終わることには間違いありません。

しかし、そのいのちの見え方は誰一人として共通の世界はありませんでした。


佛教は、その世界の違いを説いているのですが聞かれた事がない方には

当然人間としての常識が根付いていることになります。


その常識とは何か?

目に入った状況は誰が見ても一緒であるから《その状態を亡くなった事》として信じようという常識です。また、お医者さんの死亡宣告も専門家である人間の言葉を信じているに過ぎません。


さらに言えば《死》という概念もはっきり定まっていないにも関わらず

このような状況であるし、プロがそういうのだから仕方ないと

見てみぬフリをしているのが本当ではないでしょうか?


ここに人間の弱点、性質、限界に目が向かなければならないはずが

皆そう信じているから信じましょうという壁から未だに抜け出せていないのが

科学が発達した現代なのです。


最初に戻しますと《誰が亡くなったのか?》と言えば


《私にとっての◯◯》という存在が《私の世界で亡くなった◯◯》であり、

それぞれの世界で設定された相手の《死》を受け入れているのが我々人間という姿です。


そして、本人自身も《私にとっての身体、いのち》が亡くなっていくという姿です。


これは、何を言っているのかというと


いのちは平等であり繋がっているけれども、そのいのちを《私の◯◯》と掴む事によって

相手や身体を私の所有物と勘違いしている事から生じる人間の弱点を示しています。


私にとっての妻は、私が夫である事が前提になります。そこに夫婦という関係があります。

もしも妻が亡くなるのであればセットである夫も亡くならなければなりません。

(実際はそうはなりません。)

平等の視点から見れば夫や妻という関係性を創る必要はありませんが、この人間社会ではそうはいきません。人間社会を上手く回していくための肩書きや関係性が実際に人間の上にくっついているかのように現実を見ているからこそ起こってくる世界です。


分けて分けていよいよ《私のいのち》という所有化によって起こる世界は、そもそも所有化出来ないいのちを誤ってみていた為に【亡くなっていく】、【奪われていく】、【離れていく】という苦悩を生じさせる世界となっていきます。


ならばこそ、亡くなられた方を《佛さま》と仰いでいくものに開ける世界は、

いのちは一体である事を知らせるのが佛さまであり、一体を見誤っているものを放って置けない方が佛さまでありますから


《誰か》が《亡くなる》といういのちは無く

《佛さまと成られた方のいのち》、または《佛さまと成られるいのち》と相手を見ていく事が出来ます。


人間世界を

   【 私の握っていく(所有する)世界】 とするならば


南無阿彌陀佛の世界を

   【 握っていく私を握っていくままに摂取する世界 】です。


最期の最期まで握り続け、最期の最期で皆離れていってしまうけれども

それを見越した南無阿彌陀佛であればこそ

『 この私が貴方を握っているから何も心配いらない 』とご一緒下さいます。


何もかも失われていく中で、私が握りしめたものではない確かなものがただ1つ残ってくださる。

それはお骨でも魂でもなく、南無阿彌陀佛です。

だからこそ自信をもって


  『 私は死にません。 』


こう宣言していきましょう!!!

子ども達にもこの話は今から伝えています(*´∀`*)


何を見て生きていきますか?


仏教語を使用すれば簡単に縁起、空、無自性、唯識とだけ書けば終わる話も

伝わるように書くとこれ程の長文になってしまいました(^o^;

                            南無阿彌陀佛


 
 
 

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