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布教から学ぶ死〜佛教の救いって?〜

10月17日
読了時間: 5分

昨日は、布教のご縁で武蔵野市にある源正寺さまへ。


源正寺さまの本堂
源正寺さまの本堂

このブログでも何度か取り上げていましたが、この布教の4日前の10月12日に

連れ合いの祖母、子ども達からすると曾祖母が93歳で往生(おうじょう)いたしました。

式は21日に執り行われるので暫く日数がある中で

毎日子ども達に


 『 大ばぁばは、往生したんだよ。 』


 と言い聞かせていますが、子ども達は『 おーじょーって何? 』と繰り返しています。


おそらく連れ合いのご両親もご兄妹も御親戚も


 死んでしまった・・・ 亡くなってしまった・・・


と思われている中でやはり浄土真宗の僧侶である上からは往生という言葉を知っていて欲しいので私が伝えるよりも子ども達が使用していれば自ずと伝わり、変わってくださるかなとも思い教え続けています。それ程に世の中は、人間の生命の終わりを《死》と受け止めている方が大多数です。しかし、往生は字の如く


         往き生まれる


死や亡くなるとでは天と地の差がそれぞれの世界で出てきます。


私からすれば曽祖母は成佛されたと受け止めていても

他の方が生命が終わった、母は亡くなった、婆ちゃんは死んでしまったという世界を見ているならば話はまったく通じません。


そのような事を考えながら源正寺さまへ向かっていました。


金曜日の快晴のお昼過ぎです。

そんな日ならばお寺よりどこか散歩にでも♪と思われてもおかしくない中で

足を運んでくだされた方がたくさんいらっしゃいました。m(_ _)m


話のネタは、やはり祖母の往生の話から展開させていきました。

話をしながらお同行(どうぎょう)の顔色を覗っていると1つ問いが浮かびました。

 ※ 同行・・・南無阿彌陀佛をいただき悦ぶ仲間達


浄土真宗、いや佛教をなぜ聞くのか?

それが一体、私に何の関係があるのだろうか?


これを一言でお救いと表現することができます。


つまり、一体、私の何が救われるのか?

聞いてもチンプンカンプンなのに問題ないだろうか?

しっかり理解しなければ救われないのでは・・・


せっかく佛さまの話を聞かせていただいているのだから少しくらいは分かりたい!

でも、何を聞けば良いのだろうか・・・


浄土真宗の話を《聞く》上で誰しも抱く問いがこれです(^o^;


そこで源正寺さまの寺名を用いてお話してみました。

前回も取り上げたように法名は生きているように浄土真宗のお寺の名も生きています。


正の源ですから

① まず、全佛教に通じる正とは何でしょうか?

それは、縁起の道理と事実です。

例えば、机という実体はなく、木を伐る方、木を加工する方、その木を組立る方だけでなく

組み立てたものを運び、必要な方に届いた時に《机》というものが存在します。

しかし、その《机》も食事をしたり作業したりする時に使用していれば机ですが使用方法が異なれば椅子にも台にもなってしまいます。

つまり、固定的な実体はどこにもありません。

(これを【私】に当てはめて考えてみましょう。)


その源は何か? 真如実相(タタター)、それがそれとしてある状態です。


修行される佛教宗派は、この世界を理解し自らに体現しその世界と1つになっていくことを目指しているわけです。


② 浄土真宗の正とは何でしょう?

 それは、他力(本願力)です。(私が)他人の力をあてにするのではなく、利他力(りたりき)の事です。南無阿彌陀佛が私を利する力を他力と表現していますから世間の使用方法は誤りです。

その源は、佛さまになる前の段階、それは法蔵菩薩(比丘)が私を発見し、私の為に48の願いを起こされその願いを成就させようとご苦労くだされたすべてになります。


③ そして、その私こそ南無阿彌陀佛の正しきお目当てでありました。

 その私の源とは何でしょう? 始まりが分からない程のはるか昔、無始より

 ずっと生死流転(しょうじるてん)の迷いを繰り返している私に遡っていきま  す。


この③つは、バラバラなのではなく1つです。


人間である《私》には、縁起という法則はまったく分かりません。

《私》という実体がある!と皆思い込んでいます。それが証拠です。

ですから、それぞれ実体があると思っているからこそ

 『 祖母が、亡くなった。 』と使っているのです。


私というものが縁起だからこそ祖母だけでなくすべて縁起、それは繋がっているという事です。


《 無いものを実体がある! 》と錯覚しているからこそその原因を

はっきりさせたのが佛教の根本になります。


その智慧(いのちの一体、繋がり)からご覧くださった


いのちをバラバラに切り分け孤独の実体を創り上げている《私》


であるからこそ


  『 この者を真っ先に救わねばならない !! 』


と真如が《私》を発見し、法蔵と現れ、どうすれば佛にする事が出来ようかとご思案くだされ願いを建てられた時間と願いを完成させる為に費やされた時間すべてが南無阿彌陀佛と

私に届いているのです。


そこには、何を聞けばよいか? こんな私で問題ないか?

私の何が救われるのか? という心配はとっくに先取りされていることが分かります。


浄土真宗の救いとは、南無阿彌陀佛を聞く事。

何を聞くかではなく、私の救いが組み込まれた南無阿彌陀佛がお救いそのものでありますからそれを聞くのです。

そして、救いとは私が佛さまにならしていただくことが《今》決定しているという事。

さらに言えば、すべてのいのちに届いている南無阿彌陀佛であればこそ

どのような方がどのようなカタチで生命を終えようとも必ず成佛する事が決まっているのです。


だからこそ

    

  『 大ばぁばは、往生して佛さまに成られたんだよ。 』


と自信をもって子ども達に伝えられるのです。

その佛さまが還ってくる場所は、今ここでまだ迷いの世界に身を置く私たちのもとしかありません。ですから今日も佛さまは私とご一緒なのです。


                                  南無阿彌陀佛



 
 
 

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