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新しいスタイルの埋葬方法?

本日は子ども達と東武動物公園に行ってきました!

目的は乗馬。無事2人とも怖がらず乗ることが出来ました。


さて、目的地へ向かっているとやはり目を惹くものはやたら多い看板。

どの看板も樹木葬や低価格の葬儀を勧めるものばかり・・・


連日、ここに関する投稿ばかりしているので

頭のスイッチがこのような所で入ってしまいます(;・∀・)


昨日は自分の生と死はプロセスであるから

【ここが私の誕生!】、【これが私の死の瞬間!】と定めることが出来ない。

ましてや自分自身がすべて縁によって生じ、変化し続けている存在であるから

『 これが私です! 』と言うことさえ不可能であるという話をしました。


数年ほど前から就活ならぬ終活が流行り始めました。

自分の死に方は自分で決める、遺しておけば家族がそのようにしてくれるはずと

自らのお骨の埋葬場所まで決める方が続出しています。


しかし、それで本当に問題解決でしょうか?


『 これが私である。 』という事が出来ない《私》が、《私のお骨》の埋葬場所を決める。


それは本当に私のお骨になるのでしょうか?

確かにお骨は私を成立させる必要な縁ではありますが《私の》お骨と所有化してしまって良いのでしょうか。

周り無くして私は存在できない、肉体や精神無くして私は存在できないように

内と外の縁が相まって《私》という存在は成立しています。


ですから終活で埋葬場所を自ら決めてしまうのは家族や自分は安心出来ても正しい在り方ではありません。


そして問題はその後に起こってきます。

自分のいのち終えた後、ご遺族はその埋葬場所に《あなた》がいると信じるか、

ご遺族1人1人が考えている死生観の中で《あなた》を存在させ続けてしまうでしょう。

『 あの人が自分で選んだのだからここにいるはずだよね。 』

これはあなたの言葉を信じている自分に安心している姿です。


お互いに《自分自身の在り方》に目が向いていなかった為に

二重の誤りから抜け出せなくなっている状態。


実は、現代の1番の問題はここにあると言っても過言ではありません。


神様や佛さまと聞くと目に見えない超越的な存在として描いてはいませんか?


《自分の外に固定的な何かを設定する》


そして、それを信じる事が一種の宗教であるかのように思われていますがストップです。

それは、信じている自分を信じているのではないですか?

または自分が尊敬する誰かの言葉を信じているだけではないですか?


自分の外ではなく《自分自身》に目が向く


それは、縁起の法則が《縁起を知らないもの》にはたらきかけているという真実を

知った時に初めて目が向いていく話なのです(^人^)


そもそも縁起を知らなければ間違いなく


「 これが私だ!! 」 と


自分1人が生きているのだと自分以外のものを区別して人生を右往左往して暮らしていたはずなのですから・・・(佛教に深く踏み込まなければここまで気づけなかった私がいます。)


救いは誰にでも届いている、しかし、その《救い》をどのように伝えていくか。

疑問を持たれる方にいかに納得していただけるかは僧侶として学び続けなければならないからこそ出来る限り頻繁に投稿していこうと思います。          


難しい話が続いたのでそろそろ柔らかくしようかな・・・      南無阿彌陀佛

午年に初乗馬
午年に初乗馬

 
 
 

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