最近の気になる言い回し〜死者にかける言葉〜
更新日:8月9日
昨日は、百歳で往生された方の1日葬でした。
総理大臣からも表彰される程の長寿という事ですが、みなさんもそう思われますか?
その空間を傍から眺めていると変わった景色を目撃します。
棺の中にご遺体が納まり、その棺の周りを生きている者たちが取り囲み花を手向けたり、手紙を入れたり、好きなものを供えたりしています。
死者1体に対して全員が生者
棺の中に長寿であろうと若い方であろうと同じ様に涙を流している姿が見られます。
長寿の方に対しては、感謝やお祝い、労いの中に《いのち終えてしまった》という
虚しさや悲しさ、寂しさから涙が流れます。
若い方に対しては、早すぎる、勿体ない、可哀想という同情の涙が流れます。
どちらも大切な涙ではありますが、この涙は何に対して流されているものでしょうか?
それは、生者が亡き方に対してどのような想いで流しているのかという事です。
もう少し言えば《死》という現場において《死》を人間の最期という死生観から流れる涙。
もう会うことは出来ない、話す事も出来ない、触れることも出来ないという悲しさから流れる涙、《生》の時に出来ていたことが出来なくなる辛さから流れる涙です。
分かりやすく言えば、自分の世界からその人が消えてしまった・・・という喪失感。
この涙は、亡き方への涙のようで生者の所有していた相手が失われた悲しさ、
《私の大切な方が消えた》という自分の気持ちの整理の為に流される涙ともいえます。
つまり、亡き方の為ではなく自分の喪失感を埋め落ち着かせる為の涙です。
死者1人を生者が囲むからこそ起こってしまう錯覚(死者を憐れむ視線)です。
そこに最近では司会のものが余計な一言を付け加えます。
(これが最近の気になる言い回しです。φ(..))
『 どうぞお声をかけてあげてください。
亡くなられた後(臨終後48時間以内)でも最期まで耳は聞こえていると言わ
れています。お近くに寄られてお伝えください。 』
耳は生きている、聞こえている・・・
本当ですか??
これは、医学的に実証されている話ではなく、脳波を測定した時に反応があったという話であり《聞こえている》・・・かもしれないという推測に過ぎません。
蘇生された方が周りの声が聞こえていたと語る後日談は、《死》ではなく《生》の話です。
ですから聞こえているか聞こえていないかは故人さまに聞かなければ答えは分かりません。
にも関わらず、これを付け加えるという事は
ご遺族の側(生者)が、間もなくご遺体と別れお骨と対面するにあたり
言い残しが無いよう悔いのないように配慮された言葉、それは生者が安心する為の言葉となります。
長寿と言われる100歳。
これも、佛さまの視点からすれば至極短命の機と言われます。
なぜなら、南無阿弥陀佛をいただかれたいのちは、無量寿であるからです。
(命濁の時代と言われるように繋がりを切った個が孤独に生きるいのちであるから
最短のいのちとも考えることが出来ます)
人間が考えている長寿、それは長寿と思い込んでいる《長寿》です。
もっと広い視野からいのちを見た時に
生者が死者を嘆き悲しむ姿は、死者(成佛者)からすれば
『 本当のいのちに出遇っておくれ。 』
と逆に心配し嘆かれているのではないでしょうか。
よくよく死者にかける言葉を考えてみなければなりません。
佛さまの智慧をいただいて《亡き方》をどのように受け止めていくか。
それがあるかないかでその空間は全く違う景色になります。

医学を頼りにしても、自分を当てにしても
そこに本当の安心はありません。
『そうか。そうか。そうとしか亡き方を見ることが出来ない貴方を
そのまま抱き取って捨てはしないぞ。どうか貴方も佛さまと生まれて
きておくれ。南無阿彌陀佛を大切にしておくれ。』と
生者も死者も、むしろ見送る側の生者をすべての佛さまは心配なさってくださっています。
人間のあやふやな言葉で見送るのではなく、本当の言葉をかけて
しばらくのお別れをいただいてまいりましょう。
《分かっちゃいるけれど、やめられない》
大切な方を失いたくない。
それを知ってくださるからこそ
好きなようにお別れしなさいと
お慈悲の心が聞こえてくるのです。
間違いを間違いと告げぬお慈悲が聞こえてくるのです。
南無阿彌陀佛



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