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法名戒名問題

インターネットを覗いてみると


   宗教は必要かどうか?

   法名・戒名はいらない!

   葬式不要!!


と過激で自信過剰な答えが散乱しています(^o^;


これらの答えに何かしらヒントを与えられないだろうか日夜試行錯誤していますが


まず葬式、特に仏式での葬儀はどうであろうか?

ここに注目してみるならば答えは簡単です。

お釈迦様はどうであっただろうか?


涅槃像(いらすとや)
涅槃像(いらすとや)

お釈迦様が説かれた内容が、お釈迦様入涅槃後にお弟子によって編纂されお経となり

佛教となりました。つまり・・・


お釈迦様の葬儀は、仏式成立以前、しかも当時のインドの風習に従ったものでしょう。

ですから葬式仏教と揶揄されるのは正論であり後の者が佛教を死後と結びつけた事によって

現代にいたるまで続いている勘違いです。

しかし、大切な事も受け継がれていっています。


お釈迦様の教えをしっかりと聞き受けたものは、お釈迦様が人間という姿を取らなくなった後もその教えを依り処として自らのいのちと向き合っていかれています。

それは、亡き方をどのように受け止めていくか、故人を通して自分がいかに向き合うかという形で無駄にする事もあれば生き続ける事も可能であると分かります。


【 宗教を有用性で考える方 】

 宗教が何の役に立つのか? なぜ、必要なのか?と論議されるようです。これも答えは簡単です。宗教の有用性を求める方は、人間として人生を送っていく上でどのような利点があるかばかりに目を向けています。

例えば、家を新しく建てる事を考えてみましょう。


立派な家を建てる為には


 柱・床・屋根・扉・窓・・・


たくさんの素材が必要になります。これを人生に当てはめるならば

床は、科学や学問等の知識。柱は、政治や経済、人間関係等。

それらによって支えられる屋根は、社会に出て築きあげた地位や名誉、財産、力、

そして健康などもあるでしょう。

家は【人間として生きていく】為に造り上げていくものと言えます。


問題は、その家を建てる場所、土台が重要になります。

ずっと晴天が続く訳がありません。豪華で立派な家であっても大雨や台風、地震が一度起これば土台がしっかりしていなければ簡単に崩れ去ります。

その土台となるものが宗教です。


なぜ、そのようなことが言えるか?

我々人間は、生きていく事に目を向け過ぎて本当のいのちの歩みを見失っているからです。


《毎日毎日、死に向かって生きているいのちである》


生がやがて死を迎えるのではなく、死を背負って今日を生きているのが本当です。

平均寿命が80歳を超え、それまでは私は死なないと可能性を信じて生を見ている方がほとんどです。


宗教とは、信じるものは救われる、個人(私)のみに通じるだけのものであるならば

それは宗教とは呼べないでしょう。


場所を選ばず、時代を選ばず、いのちを選ばず


いつでも どこでも 誰にでも通じるからこそ宗教と呼べます。

それは信じるかどうかではなく、信じようと信じまいと変わることがない真理を宗教と置くといかに《家》のみを立派にしていこうとご利益を売りにするものが多いかが見えてきます。


これは先日教わった話ですが、本当のご利益とは・・・

自分が幸せになり他者が不幸となるもの、100円で売って40円儲けた時、40円損した者がいるという状況は本当のご利益ではありません。このようにお聞きし納得しました。


そうではなく宗教は、土台となるからこそその上に築き上げたものが崩れても崩れなくてもしっかりといのちの支えとなる、地上のものはすべて変わっていくものですが地下は変わることが絶対にない、ゆえに宗教と呼べるのです。


生と死ではなく生死が表裏一体のいのちを今送っているというのが宗教の見方です。


さて、そうなるとさらに見えてくる法名や戒名は必要か否かの問題。

ここまで来ると答えは1つしかありません。


いのちを正しく受け取るものには、無くてはならないものがこの名であります。


そして、何が問題となるかと言えば戒名の場合

佛教に従い、戒律に従い人間生活を送る事が可能かどうかです。

たまに教えを守り、守れない時もあるというのでは果たして進んでいるのか後退しているのかわかりません。

1番厳しい場面があります。それ程、真剣に積み上げていってもほんの一日、一瞬でも

怠け心や慢心を起こしたならば最初に戻ってしまう事。

それを知って授与されているならば何も言うことはありません。しかし、現実は

死後に授与されている話を聞いたり真横で見たりしていると・・・


法名も戒名も生前に授与されるものでありながら死後。

そして、生前でも厳しい現実。

葬式仏教から本当に佛教が始まるのであろうか。


家のみを立派にし、いなくなった後もその家の外観だけを豪華にしているのでは

やっぱり人間としての有用性でしか見ていないものとなり虚しさだけが残るでしょう。


                                  南無阿弥陀佛


 
 
 

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