灌仏会〜はなまつり〜
- 本清寺 浄土真宗本願寺派
- 4月8日
- 読了時間: 3分
鶯(うぐいす)を春告鳥と言います。
春を告げる鳥とはどのような事でしょう?
まさに・・・
春がやってきた事を教える鳥 です。
また満開の姿を楽しませてくれた桜も春の訪れを教えてくれました。
さてさて、その春はどこに在るのでしょうφ(..)
我々は春を見る事は出来ないけれども、春がやってきたことを知ることが出来るます。
それは紛れもない鶯や桜の鳴き声や花を聞き、見る事によって知ることが出来ました。
では、その鶯や桜は、春を知っているかといえばそれらもまた知ってはいません。
春が春の陽気でもって鶯を鳴かせ、桜を咲かせたからこそ《私》は春のはたらきを知る事が出来るように、南無阿弥陀佛の佛様も《佛力》が私にはたらきづめであることを
私の口から称えられる『南無阿弥陀佛』をもって教えてくださっています。
南無阿弥陀佛を聞かせ、称えさそうという力がはたらいているからこそ私を動かしてくださいます。
だからこそ、私を含めたすべてのものに届いている事を誰かが『南無阿弥陀佛』と称えれば
あの人にも届いているなぁと悦ぶ事が出来、お寺にたくさん参って佛様の話を聴聞されている景色はその力の凄さをまざまざと感ぜずにはいられません(*´∀`*)
本日は、お釈迦様の降誕会、灌仏会、はなまつりです!!
インターネットやSNSでは知識人の方々が、こぞってこの言葉を用いて発信していますが
鵜呑みにすることなかれです。
最近では佛教の道具化が著しく、どの宗教も上手く取り入れていらっしゃるのが見受けられます。
何をきっかけとして王子という地位を捨て、財産や権力、結婚し子が生まれたばかりの妻を捨て、親の希望をも捨てねばならなかったのか・・・
実は、道具化している宗教と袂を分かたねばならぬ決定的理由がここに見えてきます。
なぜなら世間で受け入れられている宗教施設は、お釈迦様が捨てたものと反対のものを
求める事をご利益(りやく) という名を借りて売りにしているからです。
これは初めて知った話ですが、四門出遊という有名な話の中で
最後、お城の北門から出て沙門を見てある決意を固めたお釈迦様のもとに
子が誕生した情報が家来によって届けられました。その時、一言・・・
『そうか。ラーフラが生まれたか・・・。』 と呟いたそうです。
そのラーフラを名付けと勘違いした家来はその名前を王に伝えてしまいます。
ラーフラとは、支障、三界の首枷という意味があります。
つまり、この時お釈迦様は我が子の誕生を知り、
【この者もまた苦しみの世界に生まれてしまったか・・・】という悲喜の中に
こぼれ出た言葉でした。
我が子が誕生する事は、人間世界では喜ばしい出来事です。
皆、何の疑いもなく赤飯やケーキを用意し誕生をお祝いします。
これが普通です。
しかし、お釈迦様は哀れました。
誕生の誕は、誕(いつわ)りという意味の通り
この人間世界に生まれてくることは誕りの世界に生まれてくることでもあります。
なぜ、誕りであるのか?
ある種、ここに問いを持ち、答えを見出した所に
お釈迦様が降誕された事をお祝いする意義があるでしょうm(_ _)m
誕りの世界に降り、誕りを超えていく答えが佛法の発見でありました。
その詳しい話をお寺に参って聞かせていただく日がはなまつりです!!
南無阿弥陀佛




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