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現代人の通夜葬儀の感覚とは

祖父も購入していた書籍
祖父の持っていた一冊

実際お会いした事は無い(すでにご往生)けれど布教使を始めてからずっとお遇いしているお一人・稲城選恵和上が書かれた本。まさか祖父も同じものを購入しているとは思わず驚きました。祖父と和上は同じ広島県の音戸町出身。祖父が一つ上の歳であるから同じ時代に同じ場所で浄土真宗の御法義を身に受けていたかと想像するとなんだか嬉しくなります。


さて、この一冊は物凄く難解でありますが、原始宗教、アニミズム、シャーマニズムの始まりを研究され、キリスト教、原始仏教から部派仏教〜大乗仏教まであらゆる信仰・信心を網羅した一冊です。科学が発達し続ける現代において未だに原始宗教が受け継がれている現状が覗えます。

今回の要点は1つ。自分の外側に未知の対象や超越的な対象を置き、《有るか無いか》で迷い続けている人間がいるという事です。


現代のお通夜や葬儀に参列されている方、そして導師と呼ばれる宗派の僧侶の頭の中を描いてみると大方これに当てはまるのではないでしょうか?

《一人ひとりが全く違う世界を描いている時間》
《一人ひとりが全く違う世界を描いている時間》

本屋さんを見てみると、「死は存在しない」「進化の為の死がある」「死は考えても仕方がない」「あの世について」「あの世は存在する」・・・挙げるときりがない程たくさんの書物が発売されています。これを読んだ人の世界と読まない人の世界は当然違うものになります。

ということは、参列者の中の世界は、皆違う世界ですから亡き方の世界も違います。

さらには勤めているお坊さんの世界も違うのですからこの時間は一体何をしているのでしょう・・・?


自分の外に何かしらの対象を置く、これがバラバラな世界を創り出しているという事は

原因はただ1つです。自分》と《自分以外》を分けて考えているからこそ魂や霊、輪廻する主体を設定しなければならなくなります

つまり、この時間はそれぞれが描き出している対象物を想像しながら想いを馳せている

(自分の世界を信じている)だけの時間になります。亡き方は完全に置いてけぼりです。


本来の佛教は、無我法ですから分けられないものを分け《我》を造り出している私が問題となっていきます。まさに自分1人で造り出している世界が間違いであり、妄想であると教えるのが法そのものです。

亡き方の死を無駄にしない唯一の方法は、自分自身が佛教に出遇う事。

浄土真宗で語れば、南無阿弥陀佛が私1人にかけられた願いを聞かせていただく事。

ここに分けられないものを分けて、1人の殻に閉じこもり《有るか無いか》で苦しみ悩んでいる姿を知らされていきます。


自我というものを人間は持っています。いつの間にか芽生えているものですから

もはや気づきようが無い人生を送ってしまっているのが人間の姿です。

闇にいながら闇に気付けない、迷いにいながら迷いと知らず

むしろこの世界が楽しみであるかのように日暮らしをしている私が

誰かの死に遭遇し初めて自分のいのちと向き合える。

これが今の現状であるからこそ、それに気づいた大人は早くこの真実を次世代に

伝えていかなければならないとひしひし思うのです。



 
 
 

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