続・仏教の話〜佛法は力なり〜
昨日書いていた内容をもう少し深めたくなり続編を早速m(_ _)m
氷や火、風、磁力、万有引力等の名前は、相手を同じ様に変化させる力(はたらき)に付いている名前でありました。
相手を冷やし、冷たくさせる、凍らせる力を持つものを氷と名付けたように
佛に非ざるものを佛にしようとはたらく力(作用)が佛法です。
ここが他の作用とは違うという話でありました。
触れたり見たり感じたりする事が出来る作用は、自分自身の感覚器官を通すので
実感があります。
しかし佛法は・・・
佛とは何か?
佛に非ざるものとは誰か?
この答えは、確認された方に聞くしか方法はありません。
そうしますとお釈迦様は佛法の性質を3つ(三法印)教えてくださいます。
① 諸行無常 ② 諸法無我 ③ 一切行苦
この内容は今回重要ではないので置いておきます(^o^;
この3つの性質に作用(力)があるという話をお伝えしたいのです。
すべてのものは移り変わっていく(諸行無常)と聞いた時、
『 へぇ。確かにそうですね。それが何か力があるんですか? 』
こうなるのが関の山。
なので佛法はこうですよと聞いた所でそこに力があるとは思えないのが当然です。
けれどもその佛法に身を委ねた方もまたお釈迦様でありました。
① 出家以前 ② 出家後 ③ お悟り後 (これは以前お話しました。)
③の後の人生は、①や②の生活に戻らず80歳の最期を迎えるまで
お悟りを様々な場所で説き続けたご生涯でありました。
つまり、お城に住み王子という肩書きを持ったままお説教されていたのではなく
何もかも捨てて、同じ人間という苦悩を抱えるものに対して
三法印を土台としたお説法をされ続けた姿が覗えます。
さて、なぜ最期の最期までお説法され続けたのでしょう?
佛法にどのような作用があるか?
佛に非ざるものを佛にしようとはたらかれる力とはどのようなものか?
それは、佛法に住したもの(覚者)が観ている世界にいる
すべての生きとし生けるものが佛に非ざるものであると観えたからです。
佛法に住する、それは自と他が無くなった世界ですから
そこに佛に非ざるものが佛自らの痛みとなり慈悲が生じるのです。
その痛みを治す為にいのちあらん限りお説法し続けたのがお釈迦様のご生涯です。
そのご生涯に佛法の性質が見事に反映されています。
佛法に身を置く、それはお釈迦様が佛法と1つになり
佛法の性質がお釈迦様を動かしたという事です。
そして、そして!!肝心な要は何か??
お釈迦様をしてその佛法に気づかせた力はどこにあったか??
それは佛法そのものがお釈迦様にずっとはたらきかけていたからに他なりません。
佛法は、目に見ることも触れる事も知る事も出来ませんがその法と1つに成られた
お釈迦様という人間であるからこそ佛法が
《 どのようないのちの世界を観察し、
どのような心が生じているか 》
佛法から【佛さま】という人格的表現として説かれる理由も分かります。
そのお釈迦様が説かれた佛説無量寿経(南無阿彌陀佛が説かれたお経)には
このような言葉が最後に説かれます。
当来之世 経道滅尽 我以慈悲哀愍 特留此經 止住百歳
( 当来の世に 經道滅尽せんに 我 慈悲をもって哀愍し 特にこの經を
留めて 止住すること百歳せん )
私がこの世を去った後、私が説いたお經が滅尽しようとも
この佛説無量寿經1つだけは ずっと伝わり遺り続ける!! と。
それは、なぜか?
お釈迦様を動かした佛法の性質、その性質がまさに南無阿彌陀佛そのものであったからです。その法そのものを説くために法蔵菩薩(比丘)という菩薩を主人公として法から登場させて、
その法蔵が観察された世界で《佛に非ざる迷い続ける私》の姿を発見し
慈悲の中でも無縁の慈悲と呼ばれる
【必ずかならず貴方を佛にする】という心を起こされ
私の為に48の願いを起こし、その功徳をかたっぱしから私へ与えてくださった、まさに
佛法(無我法)のすべてが込められた力が南無阿彌陀佛です。
今、その作用の中にすでにいる私の口から称えられる
『 なんまんだぶつ 』 は、火に触れて『熱い!』と声にするように
作用はどのような作用かは分からなくても
その南無阿彌陀佛を開き、内容(佛の願いや行い)を聞いていく中で
その佛心が私には無かった心を生じさせていきます。
お釈迦様がそうであったように、同じ佛さまがこの私の身の上にも
確かにご一緒くださっています。
聴いたから作用が始まるのはなく、聴く前から作用を受けていたからこそ
今、南無阿彌陀佛を聞く身となっているのです。それをお育てと言います。
佛法は力なり。南無阿彌陀佛は、本願力なり。
仏教と呼ぶより佛法がしっくりくるこの頃です。

南無阿彌陀佛



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