違和感・・・
- 本清寺 浄土真宗本願寺派
- 2 日前
- 読了時間: 3分
コロナ禍辺りからYoutubeでお坊さんが自分の宗派について発信するようになりました。他宗派との違いを一生懸命説明したり法事の意義を説明したりと奮闘されていました。
世間では、亡き方としっかりと別れ偲ぶ時間を売りにする死後ビジネスに狙いを付けた業者が一気に増えました。
最近では、その業者に対して声を上げる僧侶の話が取り上げられていました。
SNSのスレッズで流れてくる言葉は、「死んだらどうなる?」という問いかけに
自論を与える方々の中に僧侶を名告る方のコメントもありました。
「私は、42年間僧侶でしたが様々な宗教を学ぶ中でこれでは自分は救われないと還俗しましたよ。仏教では人は救えません。」と訴えていました。
情報が入り乱れ、取捨選択をすることも疲れた若い世代の人は
考える事を止めとにかくすぐに答えを求めるようになりました。
どの話も共通している事は・・・
【 自分が考えている事は正しい 】
自分とは一体
お寺のブログなので仏教に話を寄せるならばどれもアウトです。
なぜなら仏教は、無我法(むがほう)だから
修行される僧侶は、何のために修行しているかと言えば
功徳を積むためでも立派になるためでもありません。
我(我所執)の執着を取る為に行っているはずです。(尋ねていないのでわかりませんが)
そこを根本においた時、現代に溢れているのは皆《我の主張》
そこから死について考えてもやはり人間の思考からは抜け出せていないので答えは一生出てきません。
死後ビジネスの落とし穴はココにあります。
値段が安く済む代償に人間の思考を正しいものとしていのち終えていく人が増え
結果、通夜葬儀で初めて仏式で勤まり話を聞くことになりました。
これは、亡き方の問題(本人が解決する問題)は置いておいて
ご遺族(人間)がただ安心を得る、「やって良かった。」という安堵感を得るだけの時間に成り下がっています。
それを上回る形で僧侶の側も上っ面だけの調べればすぐ出てくる内容を
わざわざ発信しあたかも教えを説いているかのように見えますが
視聴者の求める答えとたまたま一致しているだけです。(我の主張ですから)

私自身もたまに手伝いで死から始まる関係性の中に身を置くことがありますが
ご遺族側は、完全に僧侶は亡き方の供養や引導を渡す為に来てくれていると思われていますが浄土真宗の佛法にはない話なので虚しさを感じてしまう自分がいます。
何とかこの悪い流れを断ち切るために、未来の子どもたちや若い世代の為に
ほんまもんを伝えていかなければならないと奮闘しております。
是非是非、ご賛同ご支援よろしくお願い申し上げます。
1人が10人になれば常識は簡単に非常識に変わります!! 南無阿弥陀佛



コメント