雨の降誕会(ごうたんえ)〜亡くなるという事?誕生という事?〜
- 本清寺 浄土真宗本願寺派
- 5月21日
- 読了時間: 4分
本日21日は、浄土真宗の宗祖親鸞聖人降誕853年を迎えられた事をお祝いする法要が全国で勤まっています。
親鸞聖人が降誕されなければこの私という人間は、未だに人間社会の常識を信じ疑わず
自身のいのちの往き先が決まらず右往左往していた事でしょう(^o^;
それ程に大切なご縁を頂戴している今に感謝せずにはいられません。
この度は、降誕会を通して一体親鸞聖人が明らかにされた浄土真宗がどのような真実(おみのり)であるのかをお伝え出来ればと思います。
まず、この誕という字を見てみましょう。

これはあまり知られていないようですが、①に示されている意味が大切になってきます。
我々は当たり前のように赤ちゃんが誕生するとケーキを用意し
『誕生日おめでとう!!』とお祝いします。生誕◯◯年と使用したりもします。
しかし、①や②を考えた時に果たして単純にお祝いだけで喜んでよろしいものかどうか考えさせられます。
降誕という言葉は、まさに誕(いつわ)りの世界に降りて来られ真実を明らかにされた事を意味しています。
では、何が誕りなのでしょう?
それがはっきりしなければこれまで単に誕生日をお祝いして歓んでいた人々が腹を立てるだけになってしまいます。
1番の誕り、それは・・・
【 言葉による錯覚の世界 】
今朝、このような疑問が浮かんでまいりました。
《私のお父さん、お母さんが死ぬ》という事がありえるだろうか?φ(..)
急に何を言いだしたんだ・・・頭おかしくなったのかと思わないでください。
大切な方を失った、失うであろう喪失感は誰にでも訪れます。
問題は、【私の】【お父さん】【お母さん】【死ぬ】という言葉です。
この言葉は、本当に実体があるのでしょうか?
これは、お釈迦様の縁起という真理を空という言葉で表現されたインドの高僧である龍樹菩薩が教えてくださることであります。
例えば、親子や兄弟という関係性があります。

この時、母は単独で母親で存在は出来ません。子が必要になります。
また、兄も単独で兄ではいられず(一人っ子)、弟という存在がいて初めて兄になります。
つまり、母も兄も弟も相手があって成立する関係性ですからそれ自体として存在しているわけではありません。
ここから私のお母さんという存在は、関係性という肩書きはあっても実際に存在してはいないことが分かります。
次に、老人や死人についても考えてみましょう。

最初から老人という方はいらっしゃるでしょうか?(^o^;
そんな人はいません。赤ちゃんから大きくなって若者になり、やがて老人に変化します。
もしも赤ちゃんという自性があるならば赤ちゃんは成長しないままずっと赤ちゃんです。
赤ちゃん、若者、成人、壮年、老人という成長段階に付けられた名前であり、
老人そのものに自性はありません。
これを生と死に当てはめてみると・・・
生に自性があるならば死は存在しません。
そして死に自性があるならば一体今何が生きているのでしょう?
そこから《死ぬ》という言葉が曖昧であやふやである事が分かります。
さらにこの視点を深めていくと
この私と思っている《私》にそもそも自性が無かったという事実に行き着きます。
これが空(くう)という事です。
【私のお父さん、お母さんが死ぬ】、これは本当は無い所に有ると信じた人々が錯覚した出来事です。
誕(いつわ)りという漢字は、言葉によって延ばすと表すように
本質(ありのまま)から遠ざけるように歩む世界とも言えるでしょう。
そこからさらに唯識という分野が生じてきますが今回はここまで。
この空と唯識という視点を知ることによって浄土真宗の佛様である
南無阿弥陀佛が私をどのようにご覧くださっていらっしゃるかが窺えます!
その視点を根幹として私に届く南無阿弥陀佛のお心をご信心と教えてくださった方が親鸞聖人です。
『 聞(もん)というは、衆生佛願の生起本末をききて疑心あることなし。 』
我々の歩みは本質から遠ざかる歩みであるけれども
その私をあるがままにご覧くださった佛様の歩みそのものが
浄土真宗の所依のお経である佛説無量寿經に説かれています。
ですからそのまま《聞く》中に佛様が私とご一緒である真実を聞くことになります。
すべて南無阿弥陀佛の側から私に届くお救いであるぞと明らかにされた宗祖の降誕をお祝いする1日を大切に過ごしましょう。
南無阿弥陀佛



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