鬼と福が分かれば楽しむだけ♪〜節分に思う〜
- 本清寺 浄土真宗本願寺派
- 2月3日
- 読了時間: 3分
今日は節分。全国の寺社や神社では豆まきが行われるようです。
『 鬼は外、福は内。 』
著名人や芸能人を集め、賑やかに福を呼び込んでいますが
果たして・・・それで良いのでしょうか。
福? 鬼?
鬼の起源はある程度分かっていますが、福の定義は人それぞれではないですか?
鬼。それは時代、場所、人間によって変化してきた言葉です。
古代で考えるならば、人間の知恵や経験が及ばない現象。
例えば、雷や火事、地震、津波などの自然現象に対して《恐れ》。今まで動いていたものが突然動かなくなり、冷たくなりコミュニケーションが不可能になった時の《不安》。
この恐怖や不安をいかに解消しようか考えた人間は、それを人間には思いつかない何者か、考えが及ばない存在のせいにしよう!としました。
これが鬼の始まり。鬼はもともと陰(オヌ)。
これが今度は中国の風習と結びつき始めたのが平安時代。
中国では、鬼門と考えている方角があります。
(中国では生命終えた肉体と精神は魂魄に分裂すると考え魂を鬼としたようです)
丑寅の方角(・・;) 丑の角と寅のパンツ・・・鬼のイメージ
また、平安時代の貴族や国のトップから見た民衆を鬼と表現したともあります。
貴族から見た民衆は貧しい人々、国の秩序を乱したり、国の考えに反対するもの(反逆者)
これらを鬼と見なしていたそうです。
さらには原因不明の疫病も鬼と呼ばれました。
さらに鬼のジャンルが増えました。
病、そして
《 自分にとって都合の悪いもの 》
ここからさらに鬼は進化します。
ある日、愛していた人が突然別れを告げられ、別の人と付き合い始める・・・
愛は憎しみに変化し、恨み妬み嫉みに。その形相やいかに・・・
昔話に出てくる鬼もやはり人間にとって都合の悪いものの象徴として描かれヒーローに退治されめでたしめでたしのパターンが多いのもこれらが理由です。
そこまで行き過ぎると今度は
「それではあまりに《鬼》が可愛そうである。」と違う話が現代では生まれていますが
これもやはり人間の都合がもろに反映されています。
由来を知らない人が鬼という架空の実在に対して暴力や排除はNGである、倫理道徳を乱すという理由でこのような話は素晴らしいと取り上げられています。
しかし、それに賛成したものが増えればどうなるか?
自分たちこそ正しく、それ以外は間違いであると再び排除に走り出します。
鬼と福の関係は相対。どちらも人間が創り出した産物。
いや、人間というよりも
《私にとって》好き嫌い、損得、都合良い悪いというものさしで見ている世界の話。
『 鬼は外、福はうち』の鬼と福の前に《私にとっての》を付けてみると
なんとも言い難い虚しさに襲われます。
そのような物差しを外したところの世界は皆《福》に見えてくるのではないでしょうか!
〜節分に思う〜毎年の話でした。

南無阿弥陀佛



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